京都市上京区

  • 6692 此付近応仁の乱洛中最初合戦地(上京区一条通堀川東入南側) 6692 此付近応仁の乱洛中最初合戦地(上京区一条通堀川東入南側)

    当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたる。 「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。 付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。 応仁元年 ( 1467 ) 5月 26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。 そのため、当時この北方にあった革堂 ( 行願寺 )・百万遍 ( 知恩寺

  • 6691 藤原道綱母子・源 頼光、一条邸跡(上京区一条通堀川東入南側) 6691 藤原道綱母子・源 頼光、一条邸跡(上京区一条通堀川東入南側)

    当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたる。 「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。 付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。 応仁元年 ( 1467 ) 5月 26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。 そのため、当時この北方にあった革堂 ( 行願寺 )・百万遍 ( 知恩寺

  • 6690 近衛堀川屋敷跡(上京区一条通堀川東入南側) 6690 近衛堀川屋敷跡(上京区一条通堀川東入南側)

    当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたる。 「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。 付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。 応仁元年 ( 1467 ) 5月 26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。 そのため、当時この北方にあった革堂 ( 行願寺 )・百万遍 ( 知恩寺

  • 6672 藤井右門宅跡(上京区烏丸通上立売上ル西側) 6672 藤井右門宅跡(上京区烏丸通上立売上ル西側)

    この地に江戸時代中期の尊王論者・藤井直明 ( なおあき = 右門 ) の居宅があった。 右門は播州赤穂藩の遺臣・藤井又左衛門の子で、赤穂取り潰しの後、父が見を寄せていた越中国射水 ( 現在の富山県射水市 ) で享保五年 ( 1720 ) に生まれた。 京都に出て竹内式部 ( たけのうち - しきぶ ) らと交わり、皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。 宝暦 ( ほうれき ) 八年 ( 1758

  • 北野天満宮に願掛け! 北野天満宮に願掛け!

       学問の神様、菅原道真が祀られている京都の北野天満宮に 参ってきました。浪人中の娘が 志望校に 合格するよう祈願するためです。親からすると ここまでくれば もうただ 祈るのみ!という心情です!!  道真公は早くも5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩を作り、14・5歳で天才と賞賛され、後には「文道の大祖・風月の本主」と仰がれました。江戸時代に寺子屋が庶民の教育機関として普及し、道真公に書道の上達と学業

  • 2996 清水谷家の椋(京都市上京区京都御苑内) 2996 清水谷家の椋(京都市上京区京都御苑内)

    この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。 樹齢は約300年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。 1864(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊皇攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死にしたとも伝えられています。 (案内板より) にほんブログ村 ↑のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人