• 弓太郎、加藤外相暗殺を決意する

    1900年代に入ると、 日本と清の関係は好転 日露戦争では、 清は中立の立場を取りながら 裏ではロシアの情報を 日本に流していました。 このような蜜月の日清関係で 日本政府の頭痛の種は、 清を打倒して新政府を 樹立しようとする 革命派の孫文の一派でした。 清からも執拗に孫文引き渡しを迫られた 政府は、第一次西園寺内閣の 外務大臣、加藤高明が 孫文の国外退去を画策します。 清に引き渡すわけではありま

  • 弓太郎、中国人留学生を受け入れる

    謝花達と共に奔走した 自由民権運動に 挫折した弓太郎は 再び下宿屋の親父に戻ります。 ある日、そこを尋ねたのが、 大アジア主義者で民権運動の 闘士でもあった、頭山満です。 頭山は弓太郎が 下宿屋を営んでいる事を知り 「中国人の留学生を 受け入れてくれないか?」 と頼みにきたのです。 当時の日本には、 明治維新を学ぶとして 1万人という中国人が 渡ってきていました。 しかし、いきなり1万人もの中国人

  • 琉球最古の画家 自了

    琉球の歴史に残る最古の画家の名前は、 城間清豊(ぐすくま・せいほう) と言う人で、号を自了(じりょう)と言います。 1614年に産まれた彼ですが、 生まれつき、耳が聞えず、 しゃべる事も出来ない という障害を持って産まれました。 両親は清豊の将来を悲観して、 彼には学問を教えませんでした。 ところが、清豊自身は、 そんなハンディはお構いなしの 好奇心旺盛な少年に育ちます。 清豊はある時、 どうして

  • 日本史上初の勲章には琉球の文字が、その理由とは?

    日本の歴史上、 最初の勲章には、 琉球の名前が入っていた というのをご存じですか? その名も、薩摩琉球国勲章といい、 1867年のパリ万博で登場しました。 当時は、徳川幕府と薩摩藩、そして佐賀藩が、 万博に自分達のブースを持っていましたが、 特に倒幕を考えている薩摩は、 幕府と薩摩藩には、 主従関係はない、 独立した国同士である という印象を諸外国に 与えたいという意図がありました。 そこで登場し

  • 平敷屋朝敏はどこが凄いの?後編

    平敷屋朝敏は、女性問題で 首里を追放され、一時期、 地頭をしていた平敷屋村に引っ込んでいます。 しかし、ここで貧しい百姓の暮らしぶりを見た 朝敏の作風に大きな変化が起きます。 美しい絵空事の悲恋ではなく、 歴史に題材を取り 本当にあった悲恋を掘り起こし ままならない世の中に 理不尽に引き裂かれる 男女の物語を書いていくのです。 「どうして世の中には、搾取されて苦しむ人間と それに胡坐をかいている人

  • 日本は琉球のおまけだった?

    世界史の授業では必ず習う 冒険家バスコ・ダ・ガマ ヨーロッパ人として初めてアフリカの南端の 喜望峰を回った人物ですが、実はヨーロッパ人では 初めて、琉球の事を知った人でもあります。 1498年にインドに到着したガマは、 ガイドのアラビア商人から、レケオという 大国があるという噂を聴きます。 もちろん、これはレキオ、琉球の事です。 それによれば、 レケオは豊かな国で、 刀、剣、香辛料、黄金や、鉄、

  • 琉球に流されたチンギスハーンの子孫

    13世紀にユーラシア大陸全域にまたがる 大帝国を築いたモンゴルの英雄チンギスハーン そんな彼の子孫が琉球に流されていました。 明朝の正式な記録である明実録によると 西暦1388年  元の王子、地保奴(チボヌ) を琉球に配流したとあります。 元帝国は、1368年に朱元璋率いる 明軍に敗れて北京を放棄して北に逃げました。 地保奴は、その際に逃げ遅れたと思われます。 流された地保奴のその後は、 何の記録

  • 450年前、繁栄する那覇

    琉球は、黒潮の通り道であり、商売や遭難、或いは、 お尋ね者という多種多様な民族が出入りしました。 14世紀に最初にやってきたのは福州の客家の人々 それから、同時期に遭難した朝鮮の人達、大和人 少し遅れて、15世紀には東南アジアのルソンや、 シャム、パレンバンというような所からも人が来ました。 16世紀も後半に入ると、ポルトガル人やイギリス人も 大航海時代の果てに琉球まで漂着します。 17世紀の最初

  • 自然の力を味方につけた琉球人の航海術

    琉球が交易を通じて、自国を賄ったという 事は広く知られています。 しかし、どうやって、琉球人が船を動かして 縦横無尽に東アジア海域を移動していたか? となると、説明できない人も多いでしょう。 「なんで、海に船出せば、自然に陸地に つくんじゃないの?」 それは、間違いではありませんが、 それでは冒険航海であり商売にはなりません。 商売を成り立たせる為には、 確実に定期的に戻ってこれるという 目算が立

  • ベトナムの抗仏運動を燃え上がらせた 琉球血涙新書

    潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、 1867年に産まれたベトナムの独立運動家です。 彼は、10代の頃から、当時、ベトナムを植民地支配していた フランスからの独立を考えて活動していた人物でした。 彼は、フランスの統治からベトナムが独立を回復するには、 西洋の近代化を学ばねばならないとした先覚者であり 1905年にアジアで唯一の近代化を成し遂げた日本に渡り、 そこで犬養毅の後援を得て、東遊(ドンズー)

  • ☆小さな王国が世界に衝撃を与えた

    これは、世界地図を回転させて、 沖縄本島を中心に見た世界です。 台湾や、中国福州がとても近く、 日本の九州とフィリピンが同じ位の 距離離れている事が分かります。 そして、丸で囲まないと見えない程に 沖縄が小さな島である事に改めて 驚くのではないでしょうか?  この小さな沖縄は、 今から、135年前までは、 琉球という独立国でした。  今から500年前は、 琉球から、何十隻という貿易船が 出港してい

  • ☆1880年、世界から注目される琉球

    1879年の琉球処分ですべてが終わったかに見える 琉球の日本併合ですが、強引な日本の手法に対して 世界からも様々な意見が出ました。 清の改革派であった、駐フランス、駐イギリス公使 郭嵩燾(かく・すうとう)は、 清朝の琉球進貢を免除すると同時に、 国際法の視点から、世界が琉球の主権を尊重し 日本からも清からも独立した立場にすべきだと主張。  これに清朝の実力者李鴻章も一時期 卓見であるという評価を与