• 日本は琉球のおまけだった?

    世界史の授業では必ず習う 冒険家バスコ・ダ・ガマ ヨーロッパ人として初めてアフリカの南端の 喜望峰を回った人物ですが、実はヨーロッパ人では 初めて、琉球の事を知った人でもあります。 1498年にインドに到着したガマは、 ガイドのアラビア商人から、レケオという 大国があるという噂を聴きます。 もちろん、これはレキオ、琉球の事です。 それによれば、 レケオは豊かな国で、 刀、剣、香辛料、黄金や、鉄、

  • 帝国主義だった琉球

    佐敷王統は、国内統一で余った エネルギーを更に北へと向けます。 そのターゲットになったのは、 奄美大島や喜界島であり、 そこには、島津氏の代官である 千竈(ちかま)氏がいました。 1450年代には、琉球は 奄美大島を千竈氏と 奪いあっていたようで 尚巴志の息子である 尚布里(しょう・ふり)が 奄美大島の攻防戦で 激戦の末に千竈氏を 辛うじて退けたという記録があります。 当時の琉球の国境線北限は 臥

  • 尚巴志の艦隊 北山の度肝を抜く

    1406年に中山王、 武寧を討った尚巴志は、 父を中山王に立てます。 これが佐敷王統の始まりになります。 尚巴志は皇太子の身分で従わない 中山の按司を征伐しつつ、那覇港を拡張して 首里城を増築していきます。 1416年、国力の充実を 実感した尚巴志は 北山を攻め滅ぼす勅を下します。 時の北山王は、 攀安知(はんあんち)といい 武勇と知略に優れた名将でした。 狩猟民が多い北山兵は勇猛であり、 人口は

  • 琉球が中国に500年送り続けたものとは?

    琉球は、1372年から、 琉球処分までの500年 毎年、せっせと中国に 送り続けたものがありました。 それは何と硫黄です。 硫黄は沖縄本島からは採れませんが、 近くに硫黄鳥島という島があり、 そこから何百年も採掘しました。 さて、どうして硫黄が輸出品だったのか? それは、これが 火薬の原料だったからです。 中国は、絶えず内乱か異民族の侵入に 悩まされている国であり、 特に騎馬民族である 遊牧民の撃

  • 佐敷王統はどうして滅んだのか?

    佐敷王統は、一代の風雲児、尚巴志が築きあげ そして、60年あまりで滅んだ王朝です。 1406~1469年ですから63年の命です。 では、佐敷王統はどうして滅んだのかを 簡単に説明していきます。 ①王様が変わるのが頻繁すぎた。 尚巴志の後を継いだ王達が短期間で次々に 亡くなりました。 これでは、権力が弱まるのは当然です。 ②身内で王位争いを始めた 王位継承順位を巡って、叔父と甥が争いました。 双方が

  • 琉球、日本は感じ悪いと思う

    琉球の船は1404年からは、日本に来ていて、 最初は鎌倉を目指して、相模湾辺りに来ていました。 その後、どうやら幕府は京都に移ったらしいと知り、 京都から近い堺に船を停泊するようになります。 特に、室町幕府8代将軍、足利義政の時代には 琉球は17年の間に6回というハイペースで来ています。 ところが、琉球使節の扱いとなると、室町幕府は 完全な属国の扱いをしていました。 『斎藤親基日記』『蔭凉軒日録』

  • 琉球、細川氏に代金を踏み倒される

    応仁の乱の東軍の大将として 有名な管領、細川勝元 琉球は彼に酷い目にあわされています。 西暦1451年琉球の貿易船が兵庫に入港します。 そこは、管領、細川氏の領地でした。 しばらくすると、細川家の家来を名乗る 日本の武士が大勢やってきて高そうな品から 強引に持ち去ってしまいました。 それからしばらくしても何の代金支払いがなく、 売掛金は五千貫文(7千万円)にもなり 耐えがたいと思った琉球は幕府に訴

  • ☆琉球の使節 北京で中国人と大喧嘩

    後には守礼の国と称えられ、大人しい温厚な人々になった  琉球の人も、15世紀は戦乱の真っ最中で、  凶暴で勇敢な人々と周辺国に恐れられていた時期があります。  西暦1448年1月、正月の挨拶を述べる為に、 北京に上った使者謝花ですが、 彼の従者は荒くれ者が多かったのか 四川長河の西の番人達と 会同館(外国人用ゲストハウス)の門外で 大喧嘩をします。  この喧嘩は、重傷者や死者が出る大騒ぎになり、