• 人さらいの条件 番外編 【記憶とダンス】

    しまった。 カイは鞄の中に荷物を準備しながら、練習着の替えをすべて洗濯に出してしまったことに、気が付いた。 ここ最近練習とリハーサル続きで、どんどん汗をかき、どんどん着替えのストックは消えた。 クローゼットの引き出しを片っ端から開ける。 分かっていたことだったが、やはり、練習着はなかった。 大きなため息をつき、カイは後ろ頭を掻く。失敗したなと、改めて思う。 部屋のベッドに投げ出されたリュックサック

  • シング シング シング(+人さらいの条件)番外編 ーー成長の過程ーー

    蛇口が閉められ、湯は止まった。 チェンは鏡に映る自分の顔をあちこちチェックすると、踵を返してドアに向かった。 ノブに手を掛けようとした瞬間、扉が勝手に、向こうから開いた。 驚いて体を引く。 開いたドアの間から、ギョンスがひょこっと顔を出し、ころりと黒目を動かしチェンを認め、さっと滑り込んできた。 動きを止めたままのチェンを顧みず、ギョンスはそのままドアに背を付き、自分の体でぱたんと閉める。 真顔で

  • 人さらいの条件 32

    考えさせて、ギョンスはそう言うのが精一杯だった。カイからその目をそらしつつ。 いやだ、絶対に無理だ。 そう、言えなかった。 チェンのことと、カイのこと、両方で、できなかった。 ギョンスは誰からも抱かれたくなどなかった。 男を抱いてはいるが、それはギョンスにとって特例のようなもので、自分が抱かれるなどとは想像も、ほぼしたことはなかった。 チェンが求めてきたら、とちらりと思ったことはあった。 それでも

  • 人さらいの条件 29

    ギョンスが自室のドアを開けると、カイがひとりでベッドに腰掛けていた。 やっと、仕事がひと段落したギョンスは、怒涛のスケジュールをなんとか乗り切った解放感と充実感、なにより疲労感に満たされて、よろよろとここまでを歩いて来た。 振り向いたカイと目が合う。 「…ただいま」 小さく、帰宅を告げる。 「おかえり」 そう答えると、カイは向こうを向いた体に頭も合わせ、俯いた。 綺麗に切り揃えられた襟足と、うなじ

  • 人さらいの条件 22

    それからまたしばらく、カイと長時間顔を突き合わせることなく、時は過ぎた。 多忙を極め、家にいること自体、ギョンスはほとんどなくなった。 時折目が合うことがあると、カイは自分から顔をそむけた。 必要があれば、口はきいた。 普通の会話が交わされた。 だがやはり、ギョンスの顔を見下ろすのは難しいと、カイは思っているようだった。 あらぬ方を向いて、言葉だけでギョンスと繋がりを持った。 カイらしいな、とギョ

  • 人さらいの条件 20

    「…なんで、部屋、入って来なかったの」 カイはギョンスから目をそらさなかった。 ギョンスもまた、そらさず、答えた。 「………邪魔かなと思って。…お前、すごい踊ってたから」 眉間を人差し指で掻き、顔を横に向けて、カイは呟く。 「…邪魔じゃ、ないよ、別に…」 「…分かった。じゃあ、戻ろう、部屋」 そう言ってカイの横を通ろうとしたギョンスの腕を、カイが掴んだ。 見上げると、すぐそこに、カイの顔がある。

  • 人さらいの条件 19

    忙しさとスケジュールのずれから、ギョンスとカイのふたりがふたりきりになるということは、その後ほぼなかった。 たとえひとつ部屋で眠るはずのお互いでも、睡眠の時間帯さえ合わなくなった。 ギョンスはこれ以上ないほど気が楽になった。 たまに顔を合わせても、そばにはメンバーたちがいる。 それとなく、カイのチェンへの振る舞いを観察しても、兄貴ぶるチェンと、弟としてしたいように過ごすカイという、昔から変わらぬ間

  • 人さらいの条件 18

    寝巻きを身に付け、髪を乾かすと、ギョンスはベッドに潜り込んだ。 ひどく疲れていた。 目を閉じると、仕事を含めたたくさんのことがギョンスの頭に去来した。 もちろん、その中に、カイもいた。 ギョンスは浴室の入り口を隔てて向かい合ったときのカイの顔が、脳裏から離れなかった。 今までのどのカイよりも、ギョンスに訴えるものがその表情にはあった。 カイにあんな顔をさせているという事実に、ギョンスの胸は痛んだ。

  • 人さらいの条件 15

    12時を回る少し前には、自室に戻ろうとギョンスは考えていた。 さまざまなやりかたでギョンスに楽しまれたチェンは、疲れ果ててベッドに倒れている。何も身に付けず、筋肉の付いた臀部を見せて。もうほとんど寝入りかけていた。ギョンスは服を着ながら、そんな彼氏を見下ろし、愛情を込めて微笑んだ。 チェンの部屋にあるタオルを出して来て、ギョンスはチェンの体の汚れた箇所を、やわやわと拭く。あ…ごめ…、と、チェンはま

  • 人さらいの条件 12

    それ以降のカイのようすに、特別の変化は見受けられなかった。 あの、食事をしたあともそうだったが、皆といる中でお互い顔を合わせても、おかしな態度をそれぞれ取ってしまったりすることは、なかった。 確かにほんの少しだけ、カイはよそよそしかったかもしれない。 だがそれも、疲れているんだろうとか、ひとつ年齢を重ねただけあって大人になってきたんだろうとか、そんな風な解釈で見た人間が納得できる範囲のものだった。

  • 人さらいの条件 9

    繋がった部分の熱さと強さと湿気が、ギョンスの不快感を煽り、カイの要求に対する返答をするのさえギョンスは我慢ならない思いだった。 今、カイの顔を見るのも嫌だった。 その声で更に何かを求められるのも。 ギョンスはカイに向かって体の側面を見せ、視線を落とし、押し殺した声で言う。 「…あれっきりだって、言っただろ」 カイもギョンスを見なかった。お互い、そっぽを向いて、会話した。 「…………俺、そんなの、う

  • 人さらいの条件 8

    目と目を合わせる苦痛に、ギョンスは先に屈した。 「…音楽聴いてるだけだよ」 斜め下に目を伏せて、自分でも説得力を欠いたようすだろうなと想像しながら、ギョンスは否定を続けた。こんなとき、自分でも驚くほど仕事で行う演技というものができなくなるのだなとギョンスは深く絶望と自己嫌悪をどこか別に感じてもいた。 「そんな嘘いらないよ……」 カイは額をぼりぼり掻き、ため息をつく。 そんなカイに向かって、はっきり

  • 人さらいの条件 7

    カイはかすかに揺れていた。 開いた口からはアルコールと油の匂いが漂い、至近距離で嗅いだギョンスは、鼻につくそれらに顔をしかめそうになる。 その目はぼうっとしてはいるがギョンスの目からは動かなかった。 また、名前を呼ぼうとしたそのとき、カイが、動いた。 長い腕をギョンスの背に回し、力を込め、自分に密着させる。 ギョンスは顎をなんとか相手の首の上に乗せ、起きた事象をまず、受け止めた。 頬にカイの首が当

  • 人さらいの条件 6

    1月14日。 カイの誕生日がやって来た。 夜、メンバーやスタッフなど、大勢で創作イタリアンへ行き、カイには特別に店にオーダーした、鶏肉を揚げたものを特製のタレで和えた新作が大量に供された。それがいたく気に入ったカイは、ほとんどすべてを自分の胃に納め、いつまでもべとつく指をひっきりなしにしゃぶっていた。社長からかなりいいワインが皆で飲むようにと数本贈られていた。日頃メンバーは揃ってあまり飲まないよう

  • 人さらいの条件 4

    「なんかあった?」 ベッドに並んで横たわり、お互い天井を仰ぎながら、チェンはギョンスにぽつりと尋ねた。 ふたりの胸は、先程までの余韻を残し、短いサイクルで上下していた。 チェンの胸の方のみ、そこここが赤く染まり、その色は自らの体温によるものだけでない濃さを示し、少しの紫が混じってもいた。横に寝そべる男の仕業だった。その、吸う、強さときたら。チェンは痛痒いような胸のあたりを手で軽く引っ掻いた。 返事

  • 人さらいの条件

    初めはふたりきりでの食事だった。 誕生日当日に皆に盛大に祝われる前に、ふたりでどこかに食べに行きたいとカイは言った。 心持ち前屈みになり、覗き込むように自分に尋ねるカイのようすがいつもよりずっと殊勝げで、ギョンスは思わず微笑んだ。 いいよ。どこ行きたい? そう言われたカイは本当に嬉しそうな、照れ臭そうな顔をした。ギョンスはそんな弟分を見、自分も思いの外心が温まるのを感じた。 じゃあ、前、兄さんがう