• 5630 島田玖川墓(台東区・谷中霊園)

    島田玖川 ( しまだ - きゅうせん ) 文政 8年 ~ 明治 23年 1月 16日 ( 1825 - 1890 ) 内務省少書記官・医師。 初称、方軒のち泰夫。父、横山広保 ( 三男 )。 同族の島田氏の養子となる。 帆足愚亭・森田節斎に儒学を学び、難波抱節に医学を学ぶ。 嘉永年間に備中倉敷にて医業を開業。 明治維新後、倉敷県少参事・内務省少書記官。従六位勲六等。子なく森氏から雅治を養子とする。

  • 5620 佐藤 亨墓(台東区・谷中霊園)

    佐藤 亨 ( さとう - とうる ) 明治 19年 ~ 昭和 42年 10月 7日 ( 1886 - 1967 ) 医師・医学博士。 父、佐藤佐 ( 長男 )。東京出身。 東大病理学助手・伝染病研究所・三浦内科副手を歴任。 大正 12年 ( 1923 ) ドイツ留学。 昭和 6年 ( 1931 ) 医学博士となる。順天堂病院医師。 妻は、東京物理学校数学教師・酒井忠量の長女・圭子 ( 平成 11年

  • 5619 佐藤 佐墓(台東区・谷中霊園)

    佐藤 佐 ( さとう - たすく ) 安政 4年 ~ 大正 8年 3月 3日 ( 1857 - 1919 ) 医師・佐藤尚中の養子。 幼名、虎三。 父、佐倉藩士・井上信利 ( 三男 )。佐藤進の義弟。千葉県出身。 佐藤尚中の養子となり、その三女楽子 ( 昭和 24年 4月 2日歿 ) を娶る、佐藤佐と名乗り、分家して一家を創る。 明治 15年 ( 1882 )ドイツおよびオーストリアに留学。 明治

  • 5610 入沢達吉墓(台東区・谷中霊園)

    入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2年1月5日) - 1938年(昭和13年)11月8日)は明治〜昭和期の医学博士、内科医。東京帝国大学教授、東京帝国大学附属医院長・同大学医学部長・宮内省侍医頭等を歴任、日本の内科学確立に貢献する。 生涯 略歴[1] 入沢達吉は1865年1月31日(元治2年1月5日)に越後国新発田藩藩医入沢恭平の長男として、南蒲原郡今町(現新潟県見附市)に

  • 5609 宇山道朔墓(台東区・谷中霊園)

    宇山道朔 ( うやま - どうさく ) 天保 7年 11月 25日 ~ 明治 38年 3月 19日 ( 1836 - 1905 ) 医者。 祖父、11代将軍・徳川家斉の侍医・宇山隆卓。 父、シーボルトの門下生・宇山道卓。 父に医学を教えられたのち長崎に出て蘭学と医学を学ぶ。 帰国後江戸神田須田町で開業。 慶応年間に佐久間町に移転。 明治に入り木脇良・桜井郁次郎らに西洋医学を学ぶ。 また、東條琴台に

  • 5604 江木鰐水墓(台東区・谷中霊園)

    江木鰐水 ( えぎ - がくすい ) 文化 7年 12月 22日 ~ 明治 14年 10月 8日 ( 1810 - 1881 ) 藩校誠之館教授・医者・福山藩儒官。 名、? ( せん )。字、晋戈。通称、繁太郎。号、健斎・三鹿斎。 豊田郡戸野村 ( 広島県賀茂郡河内町 ) 出身。父、庄屋・福原与曽八 ( 藤右衛門貞章 )( 三男 )。 福山藩医・五十川菽斎 ( いかがわ しゅくさい ) および篠崎

  • 5591 馬島瑞延墓(台東区・谷中霊園)

    馬島瑞延 ( まじま - ずいえん ) 天明 2年 ? ~ 文政 13年 1月 12日 ( 1782 ? - 1830 ) 会津藩士。 眼科医。千葉出身。 11歳で江戸に出て、馬島某に眼科医学を学び、優秀をもって馬島姓を許される。 同門生の嫉妬があり全国巡遊を理由に馬島家を出た。 会津に入った時に、たまたま藩主・松平容敬 ( まつだいら - かたたか ) が皮膚病にかかり、眼も患っていたのを瑞延が

  • 5581 岡 南洋墓(台東区・谷中霊園)

    岡 南洋 ( おか - なんよう ) / 岡亨 ( おか - とおる ) 寛政 11年 4 ? 月 1日 ~ 明治 17年 2月 2日 ( 1799 - 1884 ) 医家。 幼名、籐三郎。字、健男。号、南洋・烏有斎・大雉。通称、忠兵衛。 伊予国大州 ( 愛媛 ) 出身。 服部文布・山田東海に学び和漢学を修める。 のち、長州侍医・能美玄順・ニーマンに医学を学ぶ。 さらに長崎にて蘭学を修める。 佐藤

  • 5578 長竹正春墓(台東区・谷中霊園)

    長竹正春 ( ながたけ - まさはる ) ? ~ 昭和 36年 1月 3日 ( ? - 1961 ) 大正昭和前期の小児科医。 東京出身。東京帝国大学医学部小児科医。 昭和 8年 ( 1933 )「組織透過性の年齢的差異の研究」で学位。医学博士。日本女子大学教授。東京警察病院小児科医長。 著書:「ひよわな幼な児の育て方」、「新小児保健」、「学齢児童健康教育」、「乳幼児の病気と手当」ほか、学術誌投稿

  • 5532 樫田亀一郎墓(台東区・谷中霊園)

    樫田亀一郎 ( かしだ - かめいちろう ) 明治 3年 5月 19日 ~ 大正 4年 10月 21日 ( 1870 - 1915 ) 東宮侍医。 父、樫田雅徳 ( 長男 )。東京出身。 明治 21年 ( 1888 ) 東京帝国大学医科卒業し、陸軍衛戌病院勤務、ついで学習院医務課長。 傍ら、神経系の病理を研究。 明治 32年 ( 1899 ) 大腸菌とチフス菌を肉眼で識別する方法を発見。 発熱に基

  • 5504 木南睡癖墓(台東区・谷中霊園)

    木南睡癖 ( こなみ - すいへき ) 寛政 2年 ~ 明治 3年 11月 23日 ( 1790 - 1870 ) 江戸末期の医家。 名、晏。字、不忘。通称、文良。 代々医家。 父、春庵。母、斎木氏。篠崎小竹門下。岡山藩侍医。 楠正成 ( くすのき - まさしげ ) の後裔であり、姓の「楠」を「木」と「南」に分け復姓する。81歳病没。 墓標は清水楽山 ( 1821 - 1888 ) 撰書。

  • 5483 久保季茲墓(台東区・谷中霊園)

    久保季茲 ( くぼ - すえしげ ) 文政 13年 5月 12日 ~ 明治 19年 3月 5日 ( 1830 - 1886 ) 江戸末期から明治初期の国学者。 姓、源。初名、玄貞のち季茲。通称、鎮吉。号、琴書・杉乃舎・静園・杉庵居士・玉甌道人・水玉老人。 父、久保徳潤。 代々徳川幕府の医官。江戸出身。 幼小より病弱で薬を手放さなかった。漢学を親から学ぶ。 10歳ころ父を亡くす。 母の神道に依る影響

  • 5477 二階堂保則墓(台東区・谷中霊園)

    二階堂保則 ( にかいどう - やすのり ) 慶応元年 9月 9日 ~ 大正 14年 8月 4日 ( 1865 - 1925 ) 明治大正期の統計学者。 名、菊太郎のち保則。新潟県加茂町出身。 代々医者の家に生まれ、幼くして医術を学び、のち統計学を修める。 明治 31年 ( 1898 ) 内務技手。 明治 32年 ( 1899 ) 内務省内閣統計局嘱託となり、初めての「人口動態調査」を担当。 詳細

  • 5476 三輪徳寛墓(台東区・谷中霊園)

    三輪徳寛 ( みわ - とくひろ ) 安政 6年 8月 13日 ~ 昭和 8年 2月 19日 ( 1859 - 1933 ) 医者で薬学の権威。 父、医家・三輪徳太郎 ( 二男 )。愛知県出身。 明治 4年 ( 1871 ) 名古屋県は洋医学校を発足したが、このとき三輪徳寛は 13歳で入学した。 明治 7年 ( 1874 ) 上京し壬申義塾・外国語学校に学ぶ。 明治 10年 ( 1877 ) 東京

  • 5459 村松和歌子墓(台東区・谷中霊園)

    村松玄庵 ( むらまつ - げんあん ) の妻 村松志保子 ( むらまつ - しほこ ) の母 関連情報 http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6270.html 5457 村松志保子墓(台東区・谷中霊園) http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6271.html 5458 村松玄庵墓(台東区・谷中霊園)

  • 5458 村松玄庵墓(台東区・谷中霊園)

    村松玄庵 ( むらまつ - げんあん ) 文化 12年 1月 24日 ~ 明治 27年 10月 17日( 1815 - 1894 ) 沼田藩の御典医。 名、玄庵。号、保齡。父、沼田藩士・村松俊哲。江戸出身。 沼田藩主・土岐頼之、頼知に仕える。 子に博愛の産医として高く評価されている村松志保子がいる。 養子に維新後福岡県令となった村松文三 ( 1828 - 1884 ) がいるが、先立たれ家督は長女

  • 5457 村松志保子墓(台東区・谷中霊園)

    村松志保子(むらまつ - しほこ)     嘉永7年8月 ~ 大正11年1月26日(1854 - 1922) 慈善活動家・東京産婆会創設者。 父、沼田藩御典医村松玄庵(長女)。母、和歌子。 沼田藩の上屋敷(港区)の別邸(墨田区)で生まれる。6歳のころ藩主・土岐頼知の妻・土岐万知子の支援を受け、早くから医術を志す。のち結婚するも離婚。 村松家は男兄弟が亡くなり、養子の村松文三も亡くなり、志保子が家督

  • 5455 八杉利雄墓(台東区・谷中霊園)

    八杉利雄 (やすぎ - としお)      弘化4年~明治16年1月30日(1847-1883) 一等軍医正・我が国最初のリウマチ学単行書の訳編者。 本姓、朝倉。父、津和野藩士朝倉忠左衛門。同藩の八木利義の養子となる。 長門萩で漢学を学ぶ。ついで、江戸・大坂でも遊学。 明治2年(1869)和野藩「養老館」から、貢進生として大学東校(東寮生)(当時の校長:佐藤尚中、教授試補:長谷川泰、東寮長:石黒忠

  • 5435 志賀天民墓(台東区・谷中霊園)

    志賀天民 ( しが - てんみん ) 文政 5年 ~ 明治 9年 9年 4月 5日 ( 1822 - 1876 )・・・1824説あり 宇和島藩医師。愛知県北宇和島郡出身。 父、布俊悟 ( 長男 )。諱、英達。号、高養楼。旧名、布清恭。 天保 4年 ( 1833 ) 京都・大坂・長崎で医学を修業。 弘化 4年 ( 1847 ) 宇和島で開業。 嘉永 2年 ( 1849 ) 竜光院下の川中島に移る。

  • 5434 長谷川 泰墓(台東区・谷中霊園)

    長谷川 泰(はせがわ たい/やすし、天保13年(1842年)6月 - 明治45年(1912年)3月11日)は、幕末期の越後長岡藩軍医、「済生学舎」(日本医科大学の前身)創立者、内務省衛生局長、衆議院議員。従三位勲三等。幼名は多一、字は子寧、通称は復庵。号に蘇山・蘇門道人・柳塘・八十八峰外史・信水漁夫など。綽名は「ドクトル・ベランメー」[1]。 経歴 越後国古志郡福井村(現・新潟県長岡市福井町)で長

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