• 平等院鳳凰堂

    藤原摂関政治全盛期を極めた藤原頼通が極楽浄土をイメージして建造した平等院鳳凰堂です。 2011年に行った時の平等院鳳凰堂。 2015年に行った時の平等院鳳凰堂。朱色が塗られて創建当時の姿になっています。 現在は鳳凰堂しか残っていませんが、創建当時は数多くの塔堂が並んでいたそうです。 こちらは平等院内にある源頼政の墓です。 源頼政は平治の乱で平清盛に味方し、平氏政権下で源氏一門では異例の従三位までの

  • 「縄文期は争い少なめだった?」の記事について

    yahooニュースですが、 縄文期は争い少なめだった? 暴力死亡率1%台 岡山大教授ら人骨分析 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160330-00010004-sanyo-l33 という記事が3月30日に出ていました。 記事によると、縄文時代の日本の出土人骨のうち、武器などの暴行によると思われる傷があるものは、全体の1.8%、子どもを含めると0.9%だそうで

  • 南都七大寺⑦ 法隆寺

    南都七大寺、今回は法隆寺です。 言わずもがな、かの聖徳太子(厩戸王)が建立した現存最古の木造建築です。 また、法隆寺の隣には半跏思惟像で有名な中宮寺があります。 7世紀から続く法隆寺は、中世に東大寺や興福寺のように大規模な荘園領主化をしたわけではありませんが(荘園は持っていました)、度重なる火災にも負けず現在まで伽藍を維持してきました。 法隆寺(正確にはその西院伽藍)は現存最古の木造建築ですが、聖

  • 南都七大寺⑥ 興福寺

    南都七大寺の中でも、東大寺と並ぶ大寺院が法相宗大本山興福寺です。 藤原氏の氏寺として日本史上大きな存在感を放ちました。 元々は藤原鎌足夫人鏡大王が鎌足の病気快復を願って山城国山階に創建した山階寺(やましなでら)が起源で、その後藤原京遷都に伴って奈良に移り厩坂寺(うまやさかでら)と代わり、次いで平城京遷都に伴って興福寺となりました。 藤原氏の強力なバックアップのもと強大な勢力を持ち、中世には荘園領主

  • 南都七大寺⑤ 西大寺

    西大寺は、称徳天皇が恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の戦勝を祝って建立したお寺です。 東大寺に対して、西大寺と名づけられました。 天皇勅願の大寺院も、平安時代には火災などで衰退してしまいました。 しかし、鎌倉時代に復興を果たします。 それを成し遂げたの真言律宗のかの有名な僧・叡尊です。 叡尊は鎌倉時代に新仏教勢力が台頭してくる中、真言密教を学び、戒律を重視して律宗再興にも力を入れ、後世その教えは真言律宗

  • 南都七大寺④ 元興寺

    南都七大寺の一つ元興寺(がんごうじ)。興福寺から自転車ですぐのところにあります。 元興寺の源流は日本最古の寺院飛鳥寺(法興寺)にあり、平城京遷都に伴って新しく元興寺が建立されました。 奈良時代は法相宗や三論宗の寺院だったようですが、現在は真言律宗の寺院です。 元興寺には国宝である薬師如来像(弘仁・貞観文化)があります。 また、『元興寺縁起』は、『上宮聖徳法王帝説』とともに仏教伝来戊午年説(538年

  • 南都七大寺③ 大安寺

    南都七大寺のひとつ大安寺。 飛鳥地方に舒明天皇が建てたとされる日本初の官寺・百済大寺がルーツになっています。 百済大寺→高市大寺→大官大寺→大安寺と変遷しました。 大官大寺跡 高市大寺については詳しくわかっていませんが、大官大寺は藤原京の中心寺院として建立されました。 案内板を見ると、当時は相当巨大な寺院として建立が計画されたようです。 大官大寺は平城京遷都にともなって移転し、大安寺となりました。

  • 高地性集落から二大勢力が存在した根拠を示す!!②

    高地性集落の分布変遷 各時代の分布変遷 ではどのような分布変遷を辿ったか見てみよう。 ①高地性集落第2次 瀬戸内、近畿、九州北部にまばらに出現する。   ②高地性集落第3次 東部瀬戸内、西部瀬戸内、近畿を中心に広がる。 ③高地性集落第4次 東部瀬戸内、近畿が中心。近畿の高地性集落が増加する。   ④高地性集落第5次 ・近畿の高地性集落が内陸に展開する ・西部瀬戸内で再び増加。しかしながらすぐに消滅

  • 高地性集落から二大勢力が存在した根拠を示す!!①

    前回私は「前ヤマト王権」と「邪馬台国」が同時期に別勢力として存在していたという説を立てました。 今回と次回にわたり、考古学的な視点からその根拠を以下の2つ提示したいと思います。 今回は高地性集落の分布変遷と用途についてです。 高地性集落の分布変遷と用途 高地性集落の用途 では最初に高地性集落の分布変遷と用途について述べたいと思います。 高地性集落とは高校でも習うように弥生時代に存在した山腹や山頂等

  • ブログを始めるにあたって

    今回からブログ形式にて、「空白の四世紀」について書いていきたいと思います。 今後私論を展開していくにあたって、私が考えるおおまかな結論から述べたいと思います。 空白の四世紀に何があったか。 現在の皇室に繋がる「ヤマト王権」(今後、便宜上「前ヤマト王権」とする)と『魏志』倭人伝に登場する「邪馬台国」、この2つの勢力が同時期に存在し最終的に「前ヤマト王権」が「邪馬台国」を滅ぼすかたちで「前ヤマト王権」

  • 南都七大寺② 東大寺

    日本人なら誰もが知っている、華厳宗大本山東大寺。 聖武天皇の時に建立が始まり、治承寿永の乱で平重衡に焼かれ、戦国時代には松永久秀に焼かれて現在に至ります。 上の転害門(てがいもん)は創建当時の唯一の遺構です。 東大寺の大仏は現在3代目。聖武天皇以来、時の権力者の復興事業として復活してきました。 上の南大門は鎌倉時代に重源(俊乗)が宋から輸入した大仏様によって再建され、現在に至ります。門の左右には運

  • 南都七大寺① 薬師寺

    南都七大寺とは、南都(=奈良)に建立された大寺院を指す言葉です。 やっぱり とう  だい  が   さい  こう  ほう 薬師寺  東大寺 大安寺 元興寺 西大寺 興福寺 法隆寺 と覚えましょう。 今回は法相宗大本山薬師寺です。 天武天皇が皇后の鸕野讚良(うののさらら、後の持統天皇)の病気平癒を願って建立した寺院です。 もともとは造営中だった藤原京の近くに建立されたのですが、平城京遷都に伴って移転

  • 室生寺

    平安時代初期、真言宗の祖空海によって密教が日本にも入ってくると、仏教界でも山岳修業が流行していきます。 それ以前の寺院は、法隆寺や薬師寺、東大寺などのように、整然とした伽藍配置を持つものでしたが、山岳寺院では、斜面などの地形に合わせた自由な伽藍配置がとられています。 平安時代の山岳寺院建築の代表格が、「女人高野」室生寺です。 もともと室生寺は真言宗の寺ではなく、興福寺系列の寺でした。しかし、空海の

  • 聖林寺

    世の中は受験シーズンとなってきました。 私も大学受験生の論述問題添削などで忙しい毎日です(でもやっぱり東大の論述は教えてて飽きないですね笑)。 今年もみんないい結果が出ますように。 奈良県桜井市にある聖林寺(しょうりんじ)。 大きな道路から少し離れたところにポツンと立っている小さなお寺ですが、かの有名な天平彫刻の傑作、十一面観音像があります。 眺めはかないいいですね。 十一面観音像は、少し上った蔵

  • 山田寺跡

    大化の改新の立役者の一人、蘇我倉山田石川麻呂が発願した寺です。 石川麻呂は蘇我氏の分家(本宗家蘇我入鹿の従兄弟)ですが、乙巳の変では軽皇子(孝徳天皇)・中大兄皇子に協力し、改新政府では右大臣を務めました。 しかし、最終的に中大兄と対立し、讒言によって自害に追い込まれてしまった人物です。 11世紀頃までは写真のような四天王寺式の立派な伽藍が立ち並んでいました。 その後、源平合戦で被害を受けた興福寺の

  • 吉見百穴

    埼玉県にある吉見百穴(よしみひゃくあな)です。古墳時代後期の群集墳(岩山を掘った横穴式群集墳)の代表例です。 穴の数は200以上あるそうです(百穴というのは多くの穴という意味です)。 明治時代に調査が行われた当初は、コロポックル(小人)の生活跡だという説もあったそうです。面白いですね。 中はしっかりとした石室になっています。恐らくこの岩山の周囲に住んでいた人々の共同墓地だったのでしょう。 ちなみに

  • 真弓鑵子塚古墳&牽牛子塚古墳

    真弓  鑵子塚  古墳 まゆみ かんすづか と読みます(難しいですね) 山を下りたり登ったりだったので自転車で一苦労。 危険があるので中には入れませんでしたが、巨大な石室があるそうです。 ただし、盗掘にあっているため、副葬品はあまり残ってないとか。 (キトラ古墳などもそうだったのですが、古墳は金や銀などの副葬品目当てで多くが盗掘されてしまったようです。残っていればかなり資料的価値があるものなだけに

  • 石舞台古墳

    先週、石舞台古墳に行ってきました。 「石舞台」の由来にもなっているこの石積み。 本来は方墳の石室だったものが、盛土が除かれ露出したものです。 中はしっかりとした横穴式石室 玄室はものすごい大きさです。(高さは5m近いそうです) 7世紀初頭に造られたと見られており、被葬者は蘇我馬子が有力です。 これほど巨大な石室を造るほどの権力の持ち主ですから、7世紀初頭という年代からしても蘇我馬子が妥当のように思