• 80 間 新六光風墓

    間 光風 (はざま みつかぜ、延宝8年(1680年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は新六(しんろく)、新六郎(しんろくろう)。 生涯 延宝8年(1680年)、赤穂藩士・間光延の次男として妾腹に生まれる。兄に間光興がいる。 祖父以来、間家に伝わっていた天流剣術を父より学んだ。はじめ、赤穂藩舟奉行・里村津右衛門の養子に出されるが養父と

  • 79 倉橋伝助武幸墓

    倉橋 武幸 (くらはし たけゆき、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は伝助(でんすけ)。 生涯 寛文10年(1670年)、赤穂藩浅野家家臣の倉橋武助の子として生まれる。母は幕臣大平弥五郎兵衛の伯母。 延宝4年(1676年)、7歳のときに父が死去したため家督を継いだ。赤穂藩では中小姓(15両3人扶持)として仕

  • 78 武林唯七隆重墓

    武林 隆重(たけばやし たかしげ、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は唯七(ただしち)。 隆重の出自 隆重の祖父は、文禄・慶長の役で日本軍の捕虜になった明軍所属の孟二寛である。孟二寛は、古代中国の思想家孟子の後裔(六二世)として浙江省杭州武林に生まれ、医学を学んで育ったという。日本へ連行されたあとは長州毛利家に

  • 77 吉田沢右衛門兼定墓

    吉田 沢右衛門兼定  ( よしだ さわえもんかねさだ ) 吉田沢右衛門は、忠左衛門の嫡子で、父子討ち入り組の一人。  浅野内匠頭の刃傷事件が起こったときは、まだ家督相続をしていないから、部屋住み。 赤穂開城後は、父忠左衛門とともに播州三木に移った。  父が大石内蔵助に呼ばれて、江戸急進派の説得のために東下したのちも、 三木のいた浪宅にあってひたすら時節がくるのを待っていた。  元禄15年7月28日

  • 76 岡島八十右衛門常樹墓

    岡島 常樹 (おかじま つねしげ、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は八十右衛門(やそえもん)。 生涯 寛文6年(1666年)、出羽米沢藩上杉家を浪人した原七郎左衛門定辰の三男として誕生。母は小笠原家を浪人した和田将監の娘。長兄は原元辰がおり、常樹とは20歳近く年が離れていた。 元辰が播磨赤穂藩主浅野長矩に仕

  • 75 寺坂吉右衛門信行墓

    寺坂 信行(てらさか のぶゆき、寛文5年(1665年) - 延享4年10月6日(1747年11月8日))は、江戸時代前期の人物。赤穂浪士四十七士の一人。通称は吉右衛門(きちえもん)。のち麻布山内家の家臣。 生涯 寛文5年(1665年)、赤穂藩浅野家家臣で船方役人・寺坂吉左衛門の子として赤穂若狭野に生まれた。母は川端与右衛門女。 寛文12年(1672年)、8歳の時に吉田兼亮の家で奉公のうえ世話になる

  • 74 小野寺幸右衛門秀富墓

    小野寺 秀富(おのでら ひでとみ、延宝4年(1676年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は幸右衛門(こうえもん)。大高忠晴の二男。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。 生涯 延宝4年(1676年)、赤穂藩浅野氏家臣の大高忠晴の次男として赤穂にて誕生。母は貞立尼(小野寺秀和の姉)。幼名は小二郎(こじろう)。兄に大高忠雄がいる。 母が小野寺家

  • 73 前原伊助宗房墓

    前原 宗房 (まえはら むねふさ、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は伊助(いすけ)。 生涯 寛文4年(1664年)、浅野家家臣・前原自久の長男として赤穂藩浅野家江戸上屋敷に生まれる。 延宝4年10月9日(1676年11月14日)、父・自久の死により元服のうえ家督を継いだ(10石3人扶持)。宗房は江戸詰めの金

  • 72 勝田新左衛門武堯墓

    勝田 武尭(かつた たけたか、延宝8年(1680年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は新左衛門(しんざえもん)。 生涯 延宝8年(1680年)、赤穂藩浅野家家臣の勝田重尭の子として誕生。母は佐藤甚右衛門の娘。 元禄元年(1688年)に父と母が相次いで死去したため、9歳で勝田家の家督を相続。赤穂藩では札座横目兼中小姓(15石3人扶

  • 71 杉野十平次次房墓

    杉野 次房(すぎの つぎふさ、延宝4年(1676年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は十平次(じゅうへいじ)。 生涯 延宝4年(1676年)、赤穂藩浅野家家臣・杉野平左衛門の四男として赤穂に生まれる。 母は浅野家臣の萩原新左衛門の娘。母方の萩原家は家中随一の資産家の家系で知られた。長兄杉野兵左衛門が杉野家の家督を継ぎ、次兄萩原三

  • 70 村松喜兵衛秀直墓

    村松 秀直(むらまつひでなお、寛永19年(1642年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は喜兵衛(きへえ)。 生涯 寛永19年(1642年)、浪人の堀江九右衛門の長男として江戸で生まれた。父・九右衛門は町人に身を落とすが、秀直自身は寛文元年(1661年)頃に赤穂藩士で和算学者の村松茂清(九太夫)の婿養子に入り、武士の身分を保った。

  • 69 大高源五忠雄墓

    大高 忠雄(おおたか ただお、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。 本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称は源五・源吾(げんご)。また、子葉という雅号を持ち、俳諧にも事績を残した。 出自 大高家は平安時代から続く名門である。奥州豪族安倍貞任の一族で奥州の大高館を本拠としていたので大高氏を称するようになったという。

  • 68 貝賀弥左衛門友信墓

    貝賀 友信(かいが とものぶ、慶安3年(1650年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥左衛門(やざえもん)。本姓は藤原氏。家紋は重ね扇。 生涯 慶安3年(1650年)、赤穂藩浅野家家臣・吉田之貫の二男として誕生。母は貝賀左門女。兄に吉田兼亮がいる。 庶子であるため、寛文元年(1661年)頃に母の弟である貝賀新兵衛(同じく浅野家

  • 67 岡野金右衛門包秀墓

    岡野 包秀 (おかの かねひで、延宝8年(1680年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。岡野包住の子。通称は金右衛門(きんえもん)。本姓は藤原氏。家紋は釘貫。美男子と伝わり、吉良邸絵図面をめぐるお艶との恋愛の逸話で知られる。 生涯 延宝8年(1680年)、赤穂藩士・岡野包住(番使200石)の長男として赤穂に誕生。幼名は九十郎(くじゅう

  • 66 千馬三郎兵衛光忠墓

    千馬 光忠(せんば[1] みつただ、承応2年(1653年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は、三郎兵衛(さぶろべえ)。 生涯 承応2年(1653年)、摂津高槻藩永井家家臣の千馬求之助光久の次男として誕生。母は播磨赤穂藩浅野家家臣の筑間三右衛門の女子。兄の荊木貞右衛門がいる。 同族で同藩家臣の千馬光利の養子に入った。寛文11年(1

  • 65 木村岡右衛門貞行墓

    木村 貞行(きむら さだゆき、万治元年(1658年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は岡右衛門(おかえもん)。 生涯 万治元年(1658年)、赤穂藩浅野家の譜代家臣・木村惣兵衛の子として赤穂にて誕生。母は大岡次左衛門(赤穂浅野家家臣)の娘。弟に木村源右衛門(幕府旗本真田蔵人の家臣)、姉と妹も1人ずついた。 天和3年(1683年)

  • 64 不破数右衛門正種墓

    不破 正種(ふわ まさたね 寛文10年(1670年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は数右衛門(かずえもん)。本姓は平氏。家紋は隅角切二横一。 生涯 寛文10年(1670年)、赤穂藩浅野家家臣・岡野正治(のち変名して佐倉新助)の長男として生まれた。母は同家臣の長沢六郎右衛門の娘。弟に佐倉慶也、佐介、亀八。妹に笹川只右衛門(本多忠孝家

  • 63 菅谷半之丞政利墓

    菅谷 政利(すがや まさとし、万治3年(1660年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は半之丞(はんのじょう)。 生涯 万治3年(1660年)、赤穂藩浅野家譜代家臣・菅谷平兵衛の次男として生まれる。母は津田五郎左衛門の娘。兄に岡本松之助がいたが、この兄は菅谷家の家督を継がず備後国三次で浪人したため、政利が菅谷家の嫡男となった。 政

  • 62 中村勘助正辰墓

    中村 正辰(なかむら まさとき、万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘助(かんすけ)。 生涯 万治2年(1659年)、越後村上藩松平家家臣・三田村小大夫の子として誕生。母は同家臣・井上源右衛門の娘。 延宝4年(1676年)、播磨赤穂藩浅野家家臣の中村庄助の娘婿となった。家督を継いだのは、天和2年(1682年)

  • 61 堀部安兵衛武傭墓

    堀部 武庸(ほりべ たけつね、寛文10年(1670年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。四十七士随一の剣客であり、高田馬場の決闘で名を馳せた。吉良邸討ち入りでは江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格となった。通称の安兵衛(やすべえ/やすびょうえ)で知られる。 生涯 浪人 寛文10年(1670年)、越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(

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