• 60 大石瀬左衛門信清墓

    大石 信清 (おおいし のぶきよ、延宝5年(1677年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は、はじめ源蔵(げんぞう)、のちに瀬左衛門(せざえもん)。 生涯 延宝5年(1677年) 、赤穂藩浅野氏家臣・大石信澄の次男として誕生。母は小田貞守(近衛家家臣)の妹・外山局。幼名は八三郎(はちさぶろう)。兄に大石信興がいる。 信清は、国家老

  • 59 矢田五郎右衛門助武墓

    矢田 助武 (やだ すけたけ、延宝3年(1675年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は五郎右衛門(ごろうえもん)。 生涯 延宝3年(1675年)、赤穂藩浅野氏家臣・矢田利兵衛の子として誕生。母は田中安兵衛の娘。 貞享3年(1686年)に父の死去により家督相続、江戸詰めの藩士となり馬廻役をつとめた(150石)。元禄8年(1695年

  • 58 奥田孫太夫重盛墓

    奥田 重盛(おくだ しげもり、正保4年(1647年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は孫太夫(まごだゆう)で、最初は兵右衛門を名乗った。 生涯 正保4年(1647年)、奥田孫太夫の子として誕生。母は久米半右衛門(相馬長胤家臣)女。 はじめ、志摩国鳥羽藩内藤家に仕えたが、寛文2年(1662年)に内藤忠政の娘・波知が赤穂藩主・浅野長

  • 57 赤埴源蔵重賢墓

    赤埴 重賢(あかばね/あかはに しげかた[1]、寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は源蔵(げんぞう)。後年語られる「忠臣蔵」の物語の中では「赤垣源蔵」(あかがき げんぞう)の名でも呼ばれる[1]。 生涯 寛文9年(1669年)、誕生。父は赤埴一閑あるいは塩山十左衛門とされる。母は高野忠左衛門の娘。播磨国赤穂藩士と

  • 56 早水藤左衛門満堯墓

    早水 満尭 (はやみ みつたか、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は藤左衛門(とうざえもん)。 生涯 備前国岡山藩(池田家)家臣の山口家常の三男として誕生。山口家の家督は兄の和夷が継いだため、元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩(浅野家)の家臣・早水満輝(200石)の婿養子になる。元禄12年(1699年)8月

  • 55 潮田又之丞高教墓

    潮田 高教(うしおだ たかのり、寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は又之丞(またのじょう)。 生涯 寛文9年(1669年) 、赤穂藩浅野氏家臣の潮田作右衛門の子として誕生。 延宝3年(1675年)に200石の家督を相続し、藩内では郡奉行・絵図奉行を兼任した。 槍が得意で、東軍流の奥村無我に剣術も習った。大石良

  • 54 冨森助右衛門正因墓

    富森 正因(とみのもり まさより、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は助右衛門(すけえもん)。 生涯 寛文10年(1670年)、赤穂藩御留守居役・富森助太夫の子として誕生。母は山本源五右衛門の娘。 父が早くに死去したため幼くして浅野長矩に仕え、天和3年(1683年)に小姓になり、元禄3年(1690年)に江戸

  • 53 萱野三平重實墓

    萱野 重実(かやの しげざね、延宝3年(1675年)- 元禄15年1月14日(1702年2月10日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。通称三平(さんぺい)。討ち入り前に忠孝のはざまで自刃した赤穂藩士として有名。俳人としても知られ、俳号は涓泉(けんせん)。父は萱野重利。 生涯 旗本大島義也の家老萱野重利の三男。兄に萱野重通・萱野七之助(13歳で夭折)がいる。姉も二人、妹も一人いる。 萱野

  • 52 近松勘六行重墓

    近松 行重 (ちかまつ ゆきしげ、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘六(かんろく)。 生涯 寛文10年(1670年)、近松行生の子として誕生。異父弟に奥田行高がいる。 源義高の末流を称し、先祖は近江国の佐々木六角家の典医・近松家を継いだ。祖父の近松伊看は豊臣秀頼に仕えて、後に法眼に叙せられる医師となり、

  • 51 堀部弥兵衛金丸墓

    堀部 金丸(ほりべ かなまる(あきざね)、寛永4年(1627年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥兵衛(やへえ/やひょうえ)。堀部勝綱の子。本姓は源氏(近江源氏)。家紋は四ツ目結二ツ。 生涯 寛永4年(1627年)、浅野長重の家臣・堀部綱勝の子として常陸国笠間に生まれる。母は不詳。 堀部家は祖父・助左衛門以来、浅野家に仕える譜代の

  • 50 礒貝十郎左衛門正久墓

    礒貝 正久(いそがい まさひさ、延宝7年(1679年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は十郎左衛門(じゅうろうざえもん)。  生涯 延宝7年(1679年) 、礒貝正次の子として誕生。母は貞柳尼。 父・正次は幕臣・松平隼人正に仕えていたが、主家が断絶して浪人になると、正久は京都愛宕山教学院の稚児小姓となった。14歳のとき、父と懇意

  • 49 間 喜兵衛光延墓

    間 光延(はざま みつのぶ、寛永12年(1635年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は喜兵衛。 生涯 寛永12年(1635年)、誕生。子に長男・間光興、次男に間光風がいる。 赤穂藩では勝手方吟味役(100石)として仕えた。また、武芸は父より天流剣術を学び、諸流の剣術流派の系譜をまとめた『剣術系図』を著わしている。 元禄14年(170

  • 48 小野寺十内秀和墓

    小野寺 秀和(おのでら ひでかず、寛永20年(1643年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日)))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。小野寺又八の子。通称は十内(じゅうない)、雅号は里竜、悦貫。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。 生涯 寛永10年(1643年)、浅野家家臣・小野寺又八の長男として常陸国笠間(赤穂移封前の浅野家城地)に誕生。母は多川九左衛門女。弟に岡野包住(岡野包秀の父

  • 47 間瀬久太夫正明墓

    間瀬 正明(ませ まさあき、寛永18年(1641年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は久大夫、久太夫(きゅうだゆう)。間瀬の読みは一説に「まなせ」。  生涯 寛永18年(1641年)、赤穂浅野家臣・間瀬権大夫の長男として誕生。母は浅野家家臣多川九左衛門の娘。正保2年(1645年)に父が隠居したため家督相続。赤穂藩では200石の藩

  • 46 片岡源五右衛門高房墓

    片岡 高房(かたおか たかふさ 寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では側用人・児小姓頭をつとめ、浅野長矩から最大の寵愛を受けた。通称は、はじめ新六(しんろく)、のちに源五右衛門(げんごえもん)と称した。本姓は近江源氏。家紋は瓜の内釘貫。 生涯 寛文7年(1667年)、尾張藩徳川家の家臣・熊井重次(知行300

  • 45 原 惣右衛門元辰墓

    原 元辰(はら もととき (惣右衛門 そうえもん)正保4年(1647年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日)))は赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では足軽頭、300石。 米沢藩主上杉綱勝の家臣である原七郎左衛門定辰(馬廻り100石)の長男として誕生。母は和田将監(小笠原家家臣)の娘。父定辰は承応3年(1654年)頃、故あって上杉家を離れて浪人した。 延宝3年(1675年)惣右衛門は赤穂藩主浅

  • 44 吉田忠左衛門兼亮墓

    吉田 兼亮(よしだ かねすけ、寛永17年(1640年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は忠左衛門(ちゅうざえもん)。吉田之貫の子。本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。 生涯 寛永17年(1640年)、笠間藩主・浅野長直の家臣・吉田之貫の長男として笠間に生まれる。母は備中松山藩水谷家家臣貝賀左門の娘。弟に貝賀友信がいる。 正保2年(1

  • 43 神崎与五郎則休墓

    神崎 則休(かんざき のりやす、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は与五郎(よごろう)。本姓は源氏。家紋は蛇の目。大高忠雄・萱野重実と並んで浅野家中きっての俳人として知られた。赤穂浪士の中でも随一の酒豪として伝わっている[1]。 生涯 寛文6年(1666年)、津山藩森家家臣の神崎光則(直段奉行13石3人扶持)

  • 42 大石主税良金墓

    大石 良金(おおいし よしかね、元禄元年(1688年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。弟に大石吉之進、大石大三郎。また妹に大石くうと大石るりがいる。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。 生涯 討ち入り前後 元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男

  • 41 大石内蔵助良雄墓

    大石 良雄(おおいし よしお/よしたか)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。 赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった。 「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。 生涯 松の廊下の刃傷まで 万治2年(1659年)、大石良昭の長男として生まれる

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