• 江戸川柳 色は匂へ  「と」の2 遠眼鏡(とおめがね)

     こそぐってはやく受けとる遠目がね  見晴らしの良い場所では有料で筒形の遠眼鏡を貸していた。仲間の一人がよく見えると悦に入っていると連れの仲間がくすぐって交代を促す。  かいま見は尻をつめって代わりあい 美人だろう。声ひそめて交代。  成程と言って又見る遠めがね    肉眼で見てもう一度遠眼鏡で。  遠眼鏡見てゐて人に拾われる    銭が落ちていても遠眼鏡ではね。    ホームページ「遊行ライフ」

  • 江戸を見れば 47  慶安御触書31条

     1649年 慶安2年己丑(つちのとうし)農民に対して31条の制規(規則)が出された。  ここまで制規するのかというような内容もある。 ・ 朝起きをして、朝草を刈、昼は田畑の耕作にかかり、晩には縄をない、  たわらをあみ、それぞれの仕事を油断なく行うこと。 ・ 幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えたりせず、また名  主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。 ・ 酒や茶を買っ

  • 江戸を見れば 46  禁止、禁止の八百八町

     1648年 正保5年戊子(つちのえね)・慶安元年(2月15日)  家光将軍在籍26年目 時の権力者 大老 酒井忠勝(11年目)  禁止きんしの  八百八町で  かるためくってネ  さんま食う   ダンチョネ  家光は目黒に狩猟に、そこの農家で焼き立てのさんまを初めて食う。城では骨抜きをし、油抜きをして殿の御膳に出す。うまくないことおびただしい。 「これは、どこのサンマじゃ。」 「房州沖のサンマで

  • 江戸を見れば 45  諸大名の報告義務

     1647年 正保4年丁亥(ひのとい) 報告義務を怠ったり、ましてや書類を破棄したりというようなことは考えられないことである。  命令違反は即処罰の対象になった。御国取り潰しも当然考えなければならない。  大臣辞任なんて、そんな甘いものではない。  諸大名に証人の知行高・実子惣領・年齢を報告させる。  幕府は諸大名の重臣の妻子を年数を決めて江戸屋敷に人質として住まわせていた。この時の規定では、 ①

  • 送り火迎え火・盆灯籠・玉菊灯籠

     迎え火  迎え火  江戸では身分の高い武家や筋目の高い町家では、魂迎えをするために、各々の檀那寺へ行きます。墓前に灯火をささげ礼拝をして、まるで生きた人を迎えるように、家紋のついた弓張提燈をともして道の上を照らし、魂迎えをしました。  一般の町家では、主人が着流し羽織姿で、家の者と一緒に玄関までお迎えをします。その際、門口では焙烙(ほうろく)の上に苧殻(おがら)をのせて焚きました。これを迎え火と

  • 江戸の月見

     『江戸自慢』には以下のような記述があります。  「八月十五夜、九月十三夜も同様ニ而、芋、枝豆、団子を備へ、片月見る事を嫌ふ。団子の形ㇵ丸くして大小二品を備へり。月の大小ニ像るにや。月ㇵ本来形丸ければ、丸く製するㇵ相応に而面白し。若山ニは本太く末劣り、男児の陽物ニ似て、五月の団子ニ同じ製なり。月は陰なれど中ニ桂男の住めバ、かゝる形にせしは無理ならねど、五月八月、夏秋の季節も異なれバ、節句と月見のけ

  • 江戸を見れば 44  凧あげ禁止

     1646年 正保3年丙戌(ひのえいぬ) 西鶴5歳、芭蕉3歳、西鶴は本名を平山藤五、大坂・難波の裕福な町人の出と言われているが推測の域を出ない。  芭蕉は幼名を金作、通称を甚七郎、甚四郎、名は忠右衛門宗房。俳号としては実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。  松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった。  2歳年長の裕福な町人の息子西鶴と由

  • 江戸を見れば 43  佐倉宗吾事件

     1645年 正保2年己酉(つちのととり)徳川家康の孫娘和子の娘、家康のひ孫の女帝が誕生して15年間在位した天皇を退位した。御光明天皇の3年目、時の将軍は家光(23年目)、時の権力者は大老の酒井忠勝であった。  この年に佐倉藩領で百姓一揆が頻発した。農民の窮状を見かねて因旗郡公津村の名主、佐倉宗吾、本名は木内惣五郎が将軍に直訴して妻子とともに処刑されるという事件が起こった。  当時の直訴は罪が重く

  • 江戸を見れば 41 消防隊編成 42 芭蕉、伊賀上野赤坂に生まれる

     江戸を見れば 41 消防隊編成  1643年 寛永20年癸未(みずとひつじ)2月に私鋳銭、3月に田畑の永代売買を禁止した。現実には質入れなどによって田畑の移動が行われ、地域によっては永代売買も行われていた。  火災の頻発に対して、まずは大名火消しが編成された。消防隊編成の初めである。  江戸が大都市として急速に発展していき、それに伴って木造建築が密集して自ずと火災の発生が多くなった。江戸の火事は

  • 夏日閒詠   梁川(張)紅蘭

     梁川紅蘭は梁川星巌の妻です。中国風に張紅蘭とも名乗っていました。19世紀初めの生まれで、文政七年(1824)の21歳作の「夏日閒詠」を紹介します。    夏日閒詠       夏日閒詠  倦抛鍼線慵重理   倦みて鍼線を抛(なげう)ちて 重ねて理するに慵(ものう)し  汗珠透衣睡方起   汗珠(かんしゅ) 衣に透(とお)りて 睡りより方に起く  沙焦金鑠午逾熱   沙焦(すなこ)げ 金鑠(と)け

  • 江戸川柳 色は匂へ  「ほ」 棒

    棒の手を見せるが客へちそうなり   見事な麺棒さばき  家の親父さんは手打ちうどんや手打ちそばはプロ並みであった。地方公務員にしておくのはもったいない腕を持っていたが腕を生かさないままに終わった。それもいいか。 そばを打つ音もちそうの数に入り   音がちそうになるのは少ない。 棒の中めんぼくもなく酔は醒め    辻番や自身番の棒ではね。 棒ほどの事針ほどに母かばひ     棒大針小の母心、いいね。

  • 夏日の作   梁田蛻巌

     梁田蛻巌の夏日作を紹介します。   夏日作      夏日の作  風簾揺返照   風簾(ふうれん) 返照(へんしょう)を揺らす  柯影舞如人   柯影(かえい) 舞いて人の如し  石鼎茶前水   石鼎(せきてい) 茶前(ちゃぜん)の水  衣桁浴後巾   衣桁(いこう) 浴後の巾(きん)  琵琶湖すだれ  柯影=風簾に映る枝の影  石鼎=石造りのかなえ。湯を沸かすのに用いる。  衣桁=ころもかけ。

  • 江戸を見れば 40  餓死者続出 西鶴誕生

     1642年 寛永19年壬午(みずのえうま)春から夏にかけて日本列島全国的に飢饉に襲われる。慢性的に続いていたこの飢饉状態で餓死者続出。  徳川幕府の農村支配は危機的状況になっていた。  そんな年に「井原西鶴」が芭蕉よりも2年先に誕生する。  井原西鶴=江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。  2歳年下の芭蕉と共に談林派の俳諧師、西山宗因の影響を受けて成長して

  • 江戸を見れば 39  福岡藩主の江戸参勤中止

     1641年 寛永18年辛巳(かのとみ)2月8日に江戸参勤をやめて異国船の来港に備えさせた。  異国船というのはマカオを拠点とするポルトガル商船のことである。  江戸の大火が続く、1月に京橋桶町から出火して97町1929戸焼失し、死者380人余りを出した。3月には、日本橋から出火して大工町・油町に延焼した。  江戸の防火体制は喫緊の課題であった。  将軍の長男家綱誕生、慶賀のために家門の家々で慶宴

  • 貧甚だし 戯れに絶句を作る  宮沢雲山

     宮沢雲山は安永九年武蔵国秩父に生まれました。現在は埼玉県にあたります。  文化十二年に雲山は北遊から戻って江戸に出ました。北原秦里、梁川星巌と共に『今四家絶句』を選輯(せんしふ)しました。  今四家とは市河寛斎、大窪詩仏、菊池五山、柏木如亭のことです。雲山は寛斎の門下です。  梁川星巌は西遊するに際し七絶を雲山に送りました。一方で雲山も上州や信州に旅に出ましたが、旅の途中で七絶を詠みました。  

  • 江戸を見れば 38  家光のマンネリ化か

     1640年 寛永17年庚辰(かのえたつ)将軍も18年になると少しマンネリ化してきた点も見受けられる。  4月5日に江戸城本丸の再建が成り、家光はニ丸から本丸へ移動した。諸大名からの進物は莫大なものであった。諸大名や幕臣に倹約令を出しているのに当の家光は遊猟や御前試合、茶会や能楽と浪費がかさんでいた。  江戸庶民の生活の変化も最初に髪型に現れた。髪型を変えることが一番の手っ取り早く金のかからない心

  • 江戸川柳 色は匂へ  「に」の2 二 階

     二かいから落ちた最期のにぎやかさ   ガラガラどしん  二階から落ちて最期を迎えるのは大変な騒動の中で息を引き取ることになる。静かに湿っぽく息を引き取るのとは大違い。大変だよね。  二階から小便せぬでかどがあり    ごもっとも  吉原の遊女の部屋は二階にあるのでトイレも当然二階にあった。したがって二階で小便をして初めて一人前になると。角も取れて一人前の社会人となる。江戸の男社会の身勝手な常識に

  • 江戸を見れば 37  タンポ・コタツ・据(すえ)風呂

     1639年 寛永16年己卯(つちのとう) 明正天皇在位11年、3代将軍徳川家光在位17年。時の権力者は大老の土井利勝(16万石)、酒井忠勝(12万3千石)で、ポルトガル人を放逐し、ポルトガル船の来航を禁止する。  江戸城大火で二丸・天守閣・櫓だけが残る。恒常的に日本列島は大火と地震と洪水に見舞われてその対応だけでも大変であった。  江戸の町では無頼の徒が徘徊し、盗賊の出没が続いた。  和歌山藩主

  • 北里歌 四 市河寛斎

     市河寛斎の北里歌は三十首ありますが、その四を紹介します。   四            四  銀燈院々暗残光     銀燈 院々 残光暗く  跡断春風響屧廊     跡は断ゆ 春風の響屧廊(きょうしょうろう)  雲雨枕頭宵撃柝     雲雨枕頭(うんうちんとう) 宵に柝(き)を撃ち  不教郎夢到高唐     郎(ろう)の夢をして高唐に到ら教(し)めず  銀燈=明るく輝く燈火。  院々=遊女のいる

  • 江戸を見れば 36   大老とは何者ぞ

     1638年 寛永15年戊寅(つちのえとら) 2月28日に島原の乱はようやく鎮定された。2万5千の謀反に対して12万5千の募兵を動員しての勝利であった。  キリシタン禁制はますます厳しくなっていった。  11月7日に老中の上に大老を置き将軍の政務一切を裁断させるようになった。幕藩体制における大きな転換でる。  時の権力者として、大老 土井利勝と大老 酒井忠勝が表舞台に登場した年である。  大老=大

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