• 江戸を見れば76  芭蕉35歳 「桃青三百韻付両吟二百韻」刊行

     1678年延宝6年戊午(つちのえうま)芭蕉、桃青の俳号になって積極的に本を刊行。「江戸三吟」を京都の本屋寺田重徳から刊行。すぐに、江戸の本屋山内長七から「桃青三百韻付両吟二百韻」を刊行。  着実に宗匠としての地位を確立していく。  蕉風俳諧の確立までにはまだしばらくを要する。蕉風俳諧の理念としてよく言われる「不易流行」「わび」「さび」「しをり」「軽み」などの中でも「軽み」はこの辺りから談林風とし

  • 江戸川柳 色は匂へ  「ね」の2 猫

    猫好きも男の方は金がいり      男の好きな猫は猫でもネ。 猫に十本多いのが嫁の芸      3+10=13絃(琴) 三味線は3絃。 縁遠さ三味線もたけ琴もたけ    時間も金もかかるよなあ。 その猫をくれさっせへと村こども  西行がもらった銀の猫がほしい。 猫をなでるを里の母見て帰り    猫なで声は、後で化けるのかなあ。 竹を書くからは猫ではないと見へ  虎ですよね。虎だよ。そうかなあ。 参

  • 江戸を見れば75  芭蕉34歳 水道工事の事務を担当

     1677年延宝5年丁巳(ひのとみ) 本年より向こう4年間江戸小石川の水道工事に携わる。事務の仕事のようである。  京都より東下の伊藤信徳を迎え、信徳、信章、桃青で「三吟百韻二巻」を興行する。 芭蕉(当時は桃青)は、俳諧宗匠として立机(りっき)したと考えられる。立机とは、俳諧師が宗匠となること。  34歳の句を3句紹介  あら何ともなきやきのふは過ぎてふくと汁   桃 青  ふぐ汁を食って、あたり

  • 江戸を見れば74  芭蕉33歳 「江戸両吟集」を出版

     1676年延宝4年丙辰(ひのえたつ)春、山口信章(素堂)と両吟百韻二巻を巻いて天満宮に奉納し、「江戸両吟集」として出版する。 立句(たてく) 此梅に牛も初音と鳴つべし   桃 青 脇句      梅の風俳諧諸国にさかむなり  信 章 天満宮の見事な梅の花に鶯はもとより、きっと牛までも初音せんものと鳴くことであろう。  季語は「梅」で春。   天秤や京江戸かけて千代の春   桃 青  京と江戸の初

  • 江戸を見れば73  芭蕉32歳 宗房より桃青と改める

     1675年延宝3年乙卯(きのとう)5月、東下中の談林派の総帥、西山宗因歓迎の百韻を興行。  立句(たてく)「いと涼しき大徳也(なり)けり法の水」宗因。  立て句とは、俳諧で連句における発句(ほっく)のことで、単独の発句(=俳句)と区別するための呼び方。  この年に松倉嵐蘭(らんらん)29歳と服部嵐雪(25歳)が芭蕉(桃青)に入門する。芭蕉が俳諧師として頭角を現してきた証であろう。  日本古典文学

  • 江戸を見れば72  芭蕉31歳 俳諧師として自立

     1674年延宝2年甲寅(きのえとら)3月17日に京都の季吟より連俳秘書「埋木(うもれぎ)」の伝授を受けて、これより俳諧師として立つ。連俳秘書は俳諧師として立つ上の卒業免状のようなもの。 季吟先生は、「枕草子曙抄」を完成させる。 この年に榎本其角(14歳)が芭蕉に入門する。  2月に幕府は焼失した内裏の再建を伏見奉行を総奉行とし岡山藩に助役させた。竣工(落成)は翌年11月。  天皇家や公家は元和元

  • 江戸川柳 色は匂へ  「つ」の2 突き目

    ほれていたつき目へ乳のはしり過ぎ   知らぬが仏 突き目=眼球に受けた外傷。民間療法では乳をたらすとなおるという。 惚れていた男だったのでつい力が入って男の顔中は乳だらけ。そんなこととはつゆ知らず。 目にたのむ乳から味に道がつき   美しい。目にはもったいない。 突きもせぬ目に貰ひ乳のひざ枕   うまいことやりやがって、ふてえ野郎だ。

  • 笋(たけのこ)   柏木如亭

     柏木如亭の『詩本草』から「笋」(たけのこ)についてのエッセイを紹介します。    笋  村居(そんきょ)自(おの)づから山を看る福有り  又た喜ぶ 今朝野珍を嘗(な)むるを  屋外の霜筠(さうゐん) 犢角(とくかく)を生ず  雪天 時新と称するを屑(いさぎよし)とせず                          (もと漢詩)  此れ紫雲山二十絶の中、「冬至に笋を食ふ」の首(はじめ)なり。笋

  • 江戸を見れば71  芭蕉30歳 井原鶴永、西鶴と改号

     1673年寛文13年癸牛(みずのとうし)9月21日に延宝元年となる。 時の権力者として、大老の酒井忠清の一人舞台となる。  6月に井原鶴永(かくえい)(32歳)、西鶴と改号して大坂の生玉南坊で万句俳諧を興行して、生玉万句を出版する。  大坂談林の雄、井原西鶴が浮世草子の第一作「好色一代男」に筆を染めたのも天和元年(1681年)西鶴40歳のときである。  一方芭蕉は、29歳で江戸に出て、2,3年で

  • 江戸を見れば70  芭蕉29歳  芭蕉江戸へ下る

     1672年寛文12年壬子(みずのえね) 芭蕉は親類・縁者の後援を得てかねてより計画していた江戸に出た。江戸に出るにあたって芭蕉は「貝おほひ」という作品を完成させて、これを上野の菅原神社(天満宮)に奉納した。  29歳の芭蕉の決意と覚悟が処女出版の「貝おほい」に籠められていた。  発句合わせの「貝おほひ」には流行歌謡や流行り言葉が縦横に駆使されたこれまでにない斬新な発句合(ほっくあわせ)であった。

  • 江戸を見れば69  芭蕉28歳 仙台藩の御家騒動に裁断

     1671年寛文11年辛亥(かのとい)藩主伊達綱宗は所行紊乱(びんらん・ぶんらん)のために隠居させられ、幼年の綱村が跡を継ぎ、一族伊達兵部が実権をとり藩政を掌握した。所領争いで兵部らは処罰され、綱村は藩領を安堵された。  御家騒動は大名家の相続争いや家臣間の権力争いが発端となり、一夫多妻制の習俗や嫡長子相続性が原因となる。  仙台藩の家臣団での寄子付を禁止する。寄子付とは封建社会に特有の擬制的親子

  • 江戸川柳 色は匂へ  「そ」の2 袖の下

    袖の下たびかさなりてほころびる   ほころぶとぼろが出るぞ 袖の下=人目を忍んで渡す賄賂 むつかしい顔をうっちゃる袖の下   もらったな、このニコニコ顔 袖の上から出したので取りにくい   空気がよめん奴だ 袖の上から取ったのは怖くなし    政治献金だよと金庫へ 袖の下やらぬとばゞあ長座する    遣り手へも壱歩はね  ブログに投稿した作品をホームページに整理。 「平成ダンチョネ」「いろは随想」

  • 江戸を見れば68 芭蕉27歳 本朝通鑑(つがん)成立

     1670年寛文10年庚戌(かのえいぬ)『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)は、江戸幕府により編集された漢文編年体の歴史書。寛文10年(1670年)成立。全326巻。林家の林羅山、林鵞峯(春斎)父子を中心に編纂された。幕府の立場に立った儒教的合理主義がみられる。  神代から後陽成天皇(1586-1611在位)の代までを記している。倫理的な判断を避け、史実を書くことが方針とされているという。  岡村正辰

  • 江戸を見れば67 芭蕉26歳  公共事業に諸大名は費用負担

     1669年寛文9年己酉(つちのととり)2月に幕府は淀川の浚渫(しゅんせつ)川底浚い(さらい)に大名に費用負担をさせる。諸大名に費用を負担させることが幕府の基本政策の一つであった。  芭蕉も一時期、浚渫(川浚い)の公共事業を請け負っていた記録がある。おそらく藤堂家の口利きであったと考えられる。いくつの時かもう少し詳しく調べてみたい。  芭蕉26歳の句が日本古典文学全集にのっていないので、寛文年間の

  • 江戸を見れば 66 芭蕉25歳  隠(かくし)売女を取り締まる

     1668年寛文8年戊申(つちのえさる) 隠売女を取り締まり捕らえられたものは刑罰として吉原に送られた。抱女郎は散茶(さんちゃ)と呼ばれた。散茶はひき茶に由来し煎茶のように振り出すこともなく、吉原在来の遊女のような意気もなく客を振らないという意味である。  左様せいの家綱将軍のもと、補佐の保科正之(家康の孫)と大老の酒井忠清、老並の松平信綱が時の権力者として藩政を取り仕切っていた。  芭蕉25歳の

  • 江戸を見れば 65 芭蕉24歳  幕府は巡察使を全国に派遣

     1667年寛文7年丁未(ひのとひつじ) 前年の寛文6年4月25日に蝉吟(藤堂良忠)が、25歳で病没。芭蕉はほどなく致仕(ちし)、職を辞して兄半左エ門方に身を寄せ、時折上洛して季吟らに交わることがあったらしい。この年(寛文6年)に良忠の遺子良長が誕生。後に俳号探丸となる。  芭蕉24歳の2句   初瀬にて人々花みけるに うかれける人や初瀬の山桜   宗 房  参考、初瀬は奈良県桜井市の名刹長谷寺の

  • 江戸を見れば 64 芭蕉23歳   「左様せい様」

     1666年寛文6年丙午(ひのえうま) この年酒井忠清は老中から大老になった。将軍家綱公は生まれながらの温和柔弱の性質で万事にわたり「左様せい」と政務を執行する最高機関にお任せであった。  文治政治家といわれる大老酒井忠清の独裁時代に入る。  芭蕉23歳の句の中から3句を紹介しよう。 年は人にとらせていつも若夷(わかえびす)   宗 房  正月になると売りに来る若夷のお札の姿はいつも変わらない。き

  • 江戸を見れば 63 芭蕉22歳   茶屋対吉原の女争奪戦

     1665年寛文5年乙巳(きのとみ)幕府は武士層の養子制について制約を緩和してきたが、家康の50年忌の法会にあたって、人質として証人を呈出することをやめることにした。  茶屋と吉原が女の奪い合いで流血事件を起こす。茶屋の抱女を吉原が奪い、それをまた茶屋側が奪い返すという事件が起こった。幕府の支持のもとに吉原側が私娼取り締まりに参加することによってことを収めた。  この年、藤堂新七郎家の嗣子、蝉吟(

  • 江戸を見れば 62 芭蕉21歳  幕政運営の効率化が始まる

     1664年寛文4年甲辰(きのえたつ)政務の案件を連署していたのを小事の案件については月番老中で処理できるように処置する。公家、門跡、一門、参勤交代などの案件は4,5名の老中で構成される最高機関の全員で連署すること。  姥桜(うばざくら)さくや老後の思い出(いで)   宗 房  見事に咲いた姥桜よ。老後の名誉に一花さかせようというのか。季語は「姥桜」で春。  姥桜はひがん桜の一種で山桜とちがい落下

  • 江戸を見れば 61  芭蕉20歳  新武家諸法度追加

     1663年寛文3年癸卯(みずのとう)5月に新「武家諸法度」が出され3か条が追加された。公家との縁組は奉行所に届け出て指示を受けること。キリシタンの禁教、不幸者の処罰。そして殉死(追腹)が禁止された。 月ぞしるべこなたへ入(い)らせ旅の宿   宗 房  明るい月を道案内にどうぞ私どもの宿にお泊り下さい。季語は月で秋。  当時、謡曲を取り入れた句が流行した。若き芭蕉(宗房)も流行を取り入れて時代をよ

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