• 江戸川柳 色は匂へ  「わ」の2 若後家(わかごけ)

    若後家のふしゃうぶしゃうに子にまよひ   子のために生きるか、それと                      も。 若後家の剃りたいなどとむごがらせ   尼に、もったいない。 若い身で安請合の後家を立て      意地を捨てるべきか、女を捨てる                    べきか。 若後家のたよりになってやりたがり   ごもっとも、ごもっとも。

  • 江戸を見れば 53  消費生活の向上と貨幣経済の発展

    1655年承応4年乙未(きのとひつじ)明暦元年(4月13日)  城下町での家臣団の消費生活の向上に伴い江戸のインフラ整備や貨幣経済の改革が進行していった。  消火用の堀井戸の準備と水桶(防火用水)の完備を急いだ。1町の両側に8つずつを原則に堀井戸を設け、商売の妨げになるときは蓋をすること。水桶も井戸と同じように蓋をして常時満水の水を貯えることを整備した。  江戸の生活の発展に伴い膨大なゴミがでてそ

  • 江戸川柳 色は匂へ  「を・お」の2 大一座(おおいちざ)

    施主はまだ泣いてゐるのに大一座   よからぬ相談はすぐにやる。  大一座=川柳では多人数で女郎屋に登楼することをいう。葬式帰りや花見や夕涼みのくずれが多い。 町内のぎりさへすむと大一座   なにはともあれ義理とふんどしは。 大一座無理往生は数珠をもち   年寄りの冷や水、ポックリ行くかも。 その数珠はしまってくれと土手で言い  爺ちゃん、それはしまってよ。 人といふものは知れぬと大一座   集団心

  • 花林糖売り 唐人飴売り 女飴売り

     天保六、七年(1835、36)ころから夜、市中を「かりんとう深川名物かりんとう」と声を高くして何の所作もなく売り歩いてきた。子どもがちょうだいと言うと、八文から二十四文ずつの値に従って袋に入れて与える。かりんを細く切って黒砂糖で煮たようなもので、昼に見かけることは少なく、夜だけ売り歩いていたようである。  右側は志るこ、おしるこ売りもあったようです。  見たところ面白くもないものだが、ただ点した

  • 江戸川柳 色は匂へ  「る」の2 留 守(るす)

    憎いこと辛子すってて留守と言い   あの音は辛子味噌、さては。  辛子する=辛子をすり鉢に入れて摺るのは辛子味噌の場合である。初鰹には辛子味噌が定番。 留守たのむ人へ枕と太平記    わかるわかる。退屈だもんね。 女房がるすで流しに椀だらけ   男所帯にウジだな。

  • 江戸を見れば 52  隠元、弟子6人と来日 

     1654年承応3年甲午(きのえうま)7月、明僧隠元が黄檗宗(おうばくしゅう)伝道のために来日する。  隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。  日本では禅宗の一派として独立した。  なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元

  • 江戸川柳 色は匂へ  「ぬ」の2 盗人(ぬすびと)

    盗人はせがれ同類女房なり      親の金を持ち出すのはいい方だ。 こなたまでぐるだと母は叱られる   母は甘い、だからぐれずに立ち直                                                  る。 よくしめて寝ろと言ひ言ひ盗に出   しっかり者だ、これでないと。 夜寝なぞする盗人のなまけもの    気楽な稼業ときたもんだ。 盗人のたけだけしきは袴着る   

  • 江戸を見れば 51  近松門左衛門誕生

     1653年承応2年癸巳(みずのとみ)6月23日に京都の内裏で出火し、宝庫一つを残して全焼した。その復興は幕府にとって大きな問題であった。  近松誕生の年に松永貞徳82歳で没、西山宗因48歳、西鶴12歳、芭蕉10歳であった。  当時の初等教育は8歳を目安に寺子屋に入学するのが一般的で西鶴も芭蕉も学生期(がくしょうき)を励んでいたはずである。  芭蕉家は分家筋にあたり、本家は無足人(郷士)で、身分は

  • 江戸を見れば 50  浪人とかぶき者対策

     1652年 慶安5年壬辰(みずのえたつ)承応元年(9月18日) 9月に浪人,戸次(別木)庄左衛門・林戸右衛門らの老中暗殺計画が発覚して処刑されるという承応(じょうおう)事件が起こる。  戸次庄左衛門が同志数人と崇源院(徳川秀忠の正妻)の27回忌が増上寺で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い江戸幕府老中を討ち取ろうと計画した。  しかし、仲間の一人が老中・松平信綱に密告したため庄左衛門らは捕らえ

  • 江戸川柳 色は匂へ  「り」の2 悋気(りんき)

    寝たきりでいるはきれいなりん気也    可愛いね。 りんきにも当りでのある金だらい     斧がとぶ現代は怖い。 りんきのそれ矢戸障子へあたる也     八つ当たり、ごもっとも。 それ矢=狙いからそれて他の方へ飛んでゆく矢。流れ矢。  悋気、嫉妬、やきもちなどと言う言葉が懐かしい時代になった。今は何も言わずにバットで殴られたり、斧で殴られたりする時代になった。可愛いやきもちなんて夢のまた夢。寝たき

  • 江戸を見れば 49  由井正雪の陰謀発覚

     1651年 慶安4年辛卯(かのとう)4月20日に家光が没し、家綱が将軍となる。家光の遺言により保科正之(会津藩主)が補佐役となる。  徳川家康の孫にあたる。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君との呼び声も高い。第2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれる。幼名は幸松。  大老を抑えて時の権力者のトップとなる。  家光没という動

  • 江戸を見れば 48  お陰参り大流行

     1650年 慶安3年庚寅(かのえとら)3月から伊勢神宮への集団参詣がはじまり、江戸の商人は白衣を着て参宮した。日常生活に対する厳しい統制と圧迫、一方、江戸商人は経済的に充実してきた。  神事にことよせての民衆の示威行動が大ぴらになって、商人を核にした時代の流れが始まっていく。  お陰参りの特徴は、奉公人などが主人に無断で、また、子どもが親に無断で参詣しても、確かに参詣したという証拠品、お守りやお

  • 江戸川柳 色は匂へ  「ち」の2 智 恵

     後悔と連立って行く下司の知恵   絞って出した知恵に苦しむばかり。  下司(げす)の知恵=諺に下司の知恵は後から出る、あるいは後の悔やみ。  なろうならせめて文殊の無分別   三人寄っても知恵はない。  何と知恵がと悪いちえを出し    悪知恵はよく出るもんだ。  朝帰り行く時ほどの知恵は出ず   何かしでかそうとするときはねえ。

  • 江戸川柳 色は匂へ  「と」の2 遠眼鏡(とおめがね)

     こそぐってはやく受けとる遠目がね  見晴らしの良い場所では有料で筒形の遠眼鏡を貸していた。仲間の一人がよく見えると悦に入っていると連れの仲間がくすぐって交代を促す。  かいま見は尻をつめって代わりあい 美人だろう。声ひそめて交代。  成程と言って又見る遠めがね    肉眼で見てもう一度遠眼鏡で。  遠眼鏡見てゐて人に拾われる    銭が落ちていても遠眼鏡ではね。    ホームページ「遊行ライフ」

  • 江戸を見れば 47  慶安御触書31条

     1649年 慶安2年己丑(つちのとうし)農民に対して31条の制規(規則)が出された。  ここまで制規するのかというような内容もある。 ・ 朝起きをして、朝草を刈、昼は田畑の耕作にかかり、晩には縄をない、  たわらをあみ、それぞれの仕事を油断なく行うこと。 ・ 幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えたりせず、また名  主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。 ・ 酒や茶を買っ

  • 江戸を見れば 46  禁止、禁止の八百八町

     1648年 正保5年戊子(つちのえね)・慶安元年(2月15日)  家光将軍在籍26年目 時の権力者 大老 酒井忠勝(11年目)  禁止きんしの  八百八町で  かるためくってネ  さんま食う   ダンチョネ  家光は目黒に狩猟に、そこの農家で焼き立てのさんまを初めて食う。城では骨抜きをし、油抜きをして殿の御膳に出す。うまくないことおびただしい。 「これは、どこのサンマじゃ。」 「房州沖のサンマで

  • 江戸を見れば 45  諸大名の報告義務

     1647年 正保4年丁亥(ひのとい) 報告義務を怠ったり、ましてや書類を破棄したりというようなことは考えられないことである。  命令違反は即処罰の対象になった。御国取り潰しも当然考えなければならない。  大臣辞任なんて、そんな甘いものではない。  諸大名に証人の知行高・実子惣領・年齢を報告させる。  幕府は諸大名の重臣の妻子を年数を決めて江戸屋敷に人質として住まわせていた。この時の規定では、 ①

  • 送り火迎え火・盆灯籠・玉菊灯籠

     迎え火  迎え火  江戸では身分の高い武家や筋目の高い町家では、魂迎えをするために、各々の檀那寺へ行きます。墓前に灯火をささげ礼拝をして、まるで生きた人を迎えるように、家紋のついた弓張提燈をともして道の上を照らし、魂迎えをしました。  一般の町家では、主人が着流し羽織姿で、家の者と一緒に玄関までお迎えをします。その際、門口では焙烙(ほうろく)の上に苧殻(おがら)をのせて焚きました。これを迎え火と

  • 江戸の月見

     『江戸自慢』には以下のような記述があります。  「八月十五夜、九月十三夜も同様ニ而、芋、枝豆、団子を備へ、片月見る事を嫌ふ。団子の形ㇵ丸くして大小二品を備へり。月の大小ニ像るにや。月ㇵ本来形丸ければ、丸く製するㇵ相応に而面白し。若山ニは本太く末劣り、男児の陽物ニ似て、五月の団子ニ同じ製なり。月は陰なれど中ニ桂男の住めバ、かゝる形にせしは無理ならねど、五月八月、夏秋の季節も異なれバ、節句と月見のけ

  • 江戸を見れば 44  凧あげ禁止

     1646年 正保3年丙戌(ひのえいぬ) 西鶴5歳、芭蕉3歳、西鶴は本名を平山藤五、大坂・難波の裕福な町人の出と言われているが推測の域を出ない。  芭蕉は幼名を金作、通称を甚七郎、甚四郎、名は忠右衛門宗房。俳号としては実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。  松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった。  2歳年長の裕福な町人の息子西鶴と由

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