• 「かわいい女」チェーホフ 新潮文庫

    およそ小説に描かれた女性で、これほどかわいい女は他にいないでしょう。オーレンカは自分の意見というものを持たない人間ですが、誰かを好きでいずにはいられない女です。三度結婚しますが、三度とも相手の意見に従い、愛し切ります。最後に寡婦になりますが、ある少年に心底から愛情を注ぎます。トルストイは、この短編小説を立て続けに五度読み、「チェーホフは写真師に過ぎない。」と言った有名な逸話があります。チェーホフが

  • 「知られざる傑作」バルザック 岩波文庫

    フレンホーフェルという金持ちの老画家の話です。彼は、熱っぽく絵について語り、瞬く間に一枚の見事な絵を描いてしまうような腕を持っていますが、少し風変わりなところがあります。十年来、ある絵に没頭し、それが自分でも傑作かどうか判じかねているのです。ある機会があって、思い切ってその絵を信頼している画家の仲間に見せます。拍子抜けしたような画家たちの様子を見て、フレンホーフェルは絶望し、「わしはただの金持ちの

  • 「ざくろ屋敷」バルザック 岩波文庫

    バルザックの中では、比較的短い小説ですが、強い感動を受けずにはいない傑作です。話は、二人の子どもを連れた若く美しい未亡人が誰とも付き合わず、ざくろ屋敷で行い澄ましているところから始まります。なぜ、未亡人は誰とも付き合おうとしないのか。その理由は、読み進むうちに明らかになりますが、物語の末尾は、どの人の心をも強く勇気づけずにはいない感動的なものです。天才の力量を思わせる傑作短編です。

  • 「李陵・山月記」中島敦 新潮文庫

    作者の中島敦は若年で亡くなりましたが、漢文調の簡潔で力強い文章を得意とし、さまざまな格調の高い小説を残しました。この本に収められている短編は、どれも完成度の高い、何回もの再読に耐える、古典の名に値する名篇です。囚われの身となった「李陵」が、鬱屈を晴らそうと馬で駆けて行く場面は雄渾ささえ感じます。「名人伝」の少し現実離れしたような話には、抗し難い魅力とリアリティがあります。「弟子」の子路が孔子を深く

  • 「城の崎にて」志賀直哉 新潮文庫

    晩年の志賀は、老練な剣豪のような風貌をしていました。志賀は、日本語から大理石像のような不動の文章をきり出すことに成功しました。ニュアンスが豊富なために、平易な言語で、正確な文章を書くことの難しい日本語の性質と、長年の間、格闘したことのあらわれなのでしょう。その日本語をあくまで生かしきりながら、簡にして要を得た確固たる造形品とするために、絶妙な言語感覚が磨かれることになりました。肉体のリズムがそのま

  • 「神々の微笑」芥川龍之介 新潮文庫

    芥川は、晩年のある時期を除いては、宗教的な考え方について秀れた見識を有していました。この作品では、布教のために近世日本にやって来た主人公のバテレンを通して、日本人の宗教の有り様を見事にとらえて見せています。短編小説ですから、論理的な説得力を持ったものではありませんが、日本的な宗教の微妙な勘所をたくみな表現力を用いて描いてくれます。日本人のキリスト教受容において、多くの示唆を提示している文章になって

  • 「蜜柑<ミカン>」芥川龍之介 新潮文庫

    芥川は、小説の中で自分の姿を見え隠れさせます。それが、初期の頃はピリッとしたエスプリと自嘲の効いたよい味の作品になるのですが、後期になると、やり切れないほどの苦い後味を感じさせるものになっていきます。この「蜜柑」では、世間の塵埃<じんあい:ちりとほこり>にまみれた自分というテーマは相変わらずの芥川ですが、はじめのうちはがさつでいやな奴と思っていた少女が、汽車を待っていた弟たちのために何個もの蜜柑を

  • 菊池寛「恩讐の彼方に」 <知られざる偉人>

    菊池寛は偉人です。何がどのように偉かったか説明に困るような偉人です。文藝春秋という雑誌を創刊し、大衆小説を数多く書いた、実業家と作家を兼ねた人と言えばそれまでなのですが、それだけではどうしても菊池寛という人を掴んだことになりません。およそ、作家と言われる人はその当の人間より、書かれた文章の方が立派であることが、一般なのですが、菊池寛の場合はこれがまったく当てはまらず、書かれた文章より当の人間の方が

  • 志賀直哉「小僧の神様」 新潮文庫 <再評価>

    文庫本で数十ページほどの短編小説ですが、この作品の題名から「小説の神様」とまで呼ばれた日本を代表する近代の小説家です。磨き上げられた正確な美しい日本語を用い、完成度の高い数々の小説を書き上げました。 平易ながら簡にして要を得た品格のある志賀の文章は英訳し辛い性質があるため、不当に低評価されているきらいがあります。 文章はすべての無駄が取り除かれ、硬質ですが、それでいて、中学生でも理解できるほどの近

  • 携帯短編小説「6:34pmの着信メール」

    ▶︎男は、今日、昼頃から携帯のメールが気になっていた。 仕事の合間にちらちら、、 日が暮れ出し、外の雨音も大きくなりだした。 ふと携帯をチェック。 時計は7時前を指していた。 ▶︎来ていた。 ▶︎男は8時ぐらいまで仕事をするつもりだった。 が、すぅーっと、パワーが抜け机に突っ伏した。 ▶︎しばらくして、男は周りに挨拶もせず職場をすぅーと出た。 雨が降り、風も結構吹く中、 何処で買ったか、借りたか、