• 【臨南寺】(りんなんじ)大阪市東住吉区

    含松山【臨南寺】(りんなんじ)大阪市東住吉区 【臨南寺】(りんなんじ)は、福井県永平寺、神奈川県總持寺を両大本山とする曹洞宗の寺院。 寺伝によれば、江戸時代正保2年(1645年)約365年前、天草代官などを歴任した鈴木三郎九郎重成公が先祖の菩提を弔うために、開山萬安英種禅師(後に宇治興聖寺を中興)を請し創建した寺。 かつては、本堂、庫裡、土蔵、薬医門、禅堂、鎮守堂などを有した。現在は本堂を中心に檀

  • 【碓井八坂神社】(うすいやさかじんじゃ)と「史跡 井徳院址」/ 羽曳野市

    【碓井八坂神社】(うすいやさかじんじゃ)と「史跡 井徳院址」/ 羽曳野市 「白鳥神社」から近鉄南大阪線の東側を北へ向かって進んで集落の切れ目近くに鎮座しています。【碓井八坂神社】(うすいやさかじんじゃ)は、もとは「井徳院」と言われた奈良時代の寺の鎮守であったか、あるいは古市神社からの分社であると考えられ、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)にも記されていないので、創建はおそらく平安中期より

  • 【瀧谷不動明王寺】(たきだにふどうみょうおうじ)富田林市

    【瀧谷不動明王寺】(たきだにふどうみょうおうじ)は大阪府富田林市にある真言宗智山派の仏教寺院。日本三不動のひとつ[1]。山号は瀧谷山。正式な寺号は明王寺。一般には山号の瀧谷山にちなんで滝谷不動、滝谷不動尊と言う。また、「目の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれる。寺伝によれば、821年(弘仁12年)に空海が龍泉寺に参籠したときに、国家安泰、万民化益を願い、一刀三礼で不動明王・矜羯羅童子(こんがらど

  • 【隔夜堂】(かくやどう)大阪府南河内郡太子町

    【隔夜堂】(石造阿弥陀如来坐像)「府指定文化財」 叡福寺の山門の道を隔てて向いに【隔夜堂】(かくやどう)という小さなお堂があります。お堂の本尊は石造阿弥陀如来坐像で、平安時代末期の作とされており、1970年に大阪府文化財に指定されています。 場所:大阪府南河内郡太子町太子 アクセス:近鉄長野線 喜志駅、又は近鉄南大阪線 上ノ太子駅から、金剛バス太子線・喜志循環線「太子前」バス停下車徒歩約3分。 #

  • 【叡福寺】(えいふくじ)大阪府南河内郡太子

    【叡福寺】(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながぼ〉)があることで知られる。山号は磯長山(しながさん)、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「上之太子」と呼ばれ、「中之太子」野中寺(羽曳野市)「下之太子」大聖勝軍寺(八尾市)ととも

  • 【西方院】(さいほういん) 大阪府太子町

    【西方院】(さいほういん)は、大阪府南河内郡太子町にある浄土宗の仏教寺院。山号は南向山、寺号は法楽寺。 寺伝によれば、創立は推古天皇30年(622年)、開基は三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)。本尊は阿弥陀如来と十一面観音菩薩。 『河内名所図会』等に見える伝承によれば、622年に聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善(俗名玉照、

  • 【仲姫命陵古墳】(なかつひめのみことりょうこふん)藤井寺市

    【仲姫命陵古墳】(なかつひめのみことりょうこふん)藤井寺市 大きさは墳丘長290メートル!古市古墳群で2番目、藤井寺市内で1番大きな古墳です。5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群では応神天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考られる鍋塚古墳があります。 所在地 :大阪府藤井寺市沢田4丁目 アクセス:近鉄「土師ノ里」駅から南西へ約300メー

  • 【常光寺】(じょうこうじ)八尾市本町

    【常光寺】(じょうこうじ)八尾市本町  河内西国三十三箇所3番。おおさか十三仏霊場5番。臨済宗南禅寺派の寺院。南禅寺塔頭金地院の末寺で、山号は初日山。 通称は八尾地蔵尊。本尊は地蔵菩薩で、弘仁年間(810年 - 824年ごろ)、小野篁の作と伝えられている。 山門脇に大坂城の残石と「河内最古之音頭発祥地」の碑がある。また、境内に大坂の役で戦死した藤堂家の戦死者の墓がある。 奈良時代に僧行基が創建した

  • 【つるのはしの跡】大阪市生野区

    【つるのはしの跡】大阪市生野区 古代・仁徳天皇の時代に、多くの百済からの渡来人が住む地を「百済郡」と呼んでいたが渡来人がブタ(猪)を飼う技術を持っていたことから「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになったとのことです。渡来人の優れた技術により、文献上日本最古の橋が「百済川」(現在の平野川)に架けられ、通称「つるのはし」と呼ばれたことが現在の「鶴橋」の地名になったそうです。 ツルがよく飛来したので「つる

  • 【立江地蔵尊菩薩】(たつえじぞうそんぼさつ)八尾市植松町

    大阪府八尾市植松町に【立江地蔵尊菩薩】(たつえじぞうそんぼさつ)があります。この地蔵尊には石仏1体が祀られています。地蔵堂横に同型の燈籠2基が建てられていて、竿に「太神宮」と刻まれているものには、宝暦七年(1757年)、「象頭山」と刻まれているものには、安政三年(1856年)の年号があります。なぜこの場所に立派な燈籠があるのか、また、この【立江地蔵尊菩薩】の由緒等も不明です。このすぐそばに「森高大

  • 【明圓寺】(めいえんじ)前に鎮座する「地蔵尊」/ 八尾市

    【明圓寺】(めいえんじ)は淡海山と号し浄土真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とします。建久三年(1192年)源三位佐々木秀義の四男である佐々木高綱の開基。当時は、成法寺村にあり真言宗に属した 天文二年(1533年)八世住職佐々木了秀が当所に移転し 天文十年浄土真宗に転じる 『淡海山』は 佐々木家が近江の豪族であったことから『近江』と言う名に由来するものです。明圓寺の前の道を挟んで向いには大きな「地

  • 【延命地蔵尊】(えんめいじぞうそん)八尾市

    【延命地蔵尊】(えんめいじぞうそん)八尾市  大阪の八尾市は今東光氏の小説「悪名」や「八尾の朝吉」「河内音頭」などで有名な「河内」の中心です。東の生駒連山が奈良県との境界です。麓には「萱振」「八尾」「久宝寺」の3つの御坊があり、それぞれ寺内町としての面影を残しています。八尾市内にはたくさんの地蔵尊があります。八尾市本町に北向六道の辻【延命地蔵尊】(えんめいじぞうそん)があります。地蔵堂の正面上部に

  • 【子守神社跡】(こまもりじんじゃあと)と【子守地蔵尊】(こまもりじぞうそん)東大阪市

    大阪府東大阪市永和に鎮座している【子守神社跡】(こまもりじんじゃあと)と【子守地蔵尊】(こまもりじぞうそん)です。 子守神社跡の石標があります。案内板などがありませんので詳しくは分かりませんが、おそらくここ永和にあったとされる「素盞鳴命神社」「産土神社」「大歳神社」「子宮神社」のどれかに合祀されたのかもしれません。【子守地蔵尊】のお地蔵様は、地蔵堂の奥におられるようですが、戸が閉めてありよく見えま

  • 【八大龍王】(はちだいりゅうおう)東大阪市玉串

    【八大龍王】(はちだいりゅうおう)東大阪市玉串 この神社のような建物は住宅地の中にあります。の由緒などは不明です。門は施錠されており中に勝手に入る事はできませんでしたが、 【八大龍王】と書かれているのが見えました。【八大龍王】とは、昔から雨乞いの神様として祀られ日本各地に【八大龍王】に関しての神社や祠があります。また、ここから歩いて15分程度の場所、八尾市福万寺に「三十八神社」(みそやじんじゃ)が

  • 【太田八幡宮】(おおたはちまんぐう) 八尾市太田

    【太田八幡宮】(おおたはちまんぐう) 八尾市太田 この大田八幡宮の付近には古い町並みが数多く残っています。 大田八幡宮の由緒については、 御祭神;品陀別命 免田神社は中河内郡大正村大字大田字免田にあり。 品陀別命を祀れり。 由緒は詳らず、明治3年4月本地内にありし、巽神社・品陀別命、天皇西川神社・品陀別天皇を合祀し、同年 5年村社に列し、同40年1月神饌弊帛料供進神社に指定せらる。 境内は255坪

  • 【光蓮寺】(こうれんじ)と【稲城址】

    【光蓮寺】(こうれんじ)と【稲城址】柏原市南木の本 光蓮寺 若江山と号し、浄土真宗本願寺派の末寺。光蓮寺は守屋の滅亡後、その館を寺としたのを起源とします。その後若江郡若江村に転じ、兵火に遭ったため1477年(文明9年)に現在地に遷ったと伝わります。 門前に、【稲城址】の碑が建っています。 聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を集めて、この地に稲城を構えて抗戦したといわれて

  • 【恩智城址】(おんぢじょうし)八尾市恩智中町

    【 恩智城址】(おんぢじょうし)は中世この地の豪族「恩智左近満一」が築きました。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめました。堀の中にかつては小島がありましたが、それは昔の「一の丸」で現在の城址は「二の丸」の址といわれています。 正平三年(1348年)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちました。学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の

  • 【恩智左近の墓】(おんぢさこんのはか)八尾市恩智中町

    「恩智左近満一」は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。 湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。 傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓である。関連する史跡など:西南戦争戦死者墓―恩智左近墓の傍に明治10年の 西南戦争に官軍として従事し

  • 【六ヶ地蔵尊】(ろっかじぞうそん)八尾市刑部

    【六ヶ地蔵尊】(ろっかじぞうそん)八尾市刑部 大阪の八尾から庄之内を通って信貴山へ向かう道は、刑部の北で玉串川に達する。この玉串川西堤下に当たる刑部2丁目1番地、小字茶屋之前にこの【六ヶ地蔵】(ろっかじぞう)がある。凝灰石の石棺の蓋を利用して作った石棺仏である。かなり風化していて、顔形も分らず、時代も不明。六カについては八尾に関する古地名の六カ辻郷、小字六カ辻口などとの関係が考えられる。 由来につ

  • 【開山塚古墳】(かいざんつかこふん)八尾市

    【開山塚古墳】(かいざんつかこふん)八尾市  開山塚古墳という古墳の名称は、江戸時代に曹洞宗法蔵寺を開いた好山和尚の廟塔である清涼塔が、古墳の背後にあることから、名付けられたものです。石室の全長は、13mを測り、高安古墳群中、最大の両袖式の横穴式石室墳です。また、大森貝塚を発見した米国人の博物学者、エドワード・S・モースが、明治12年(1879年)に精密な図の作成を行うなどの調査を行い、欧米の学界

1 ... 2 3 4 5 6 ... 13