• 弓太郎、県知事を殺害しようとして謝花昇に止められる

    明治31年、台湾で警察官として 先住民討伐に参加し 負傷した新垣弓太郎は 一度沖縄に帰り、再び上京して 東京で下宿屋を開きます。 そこにやってきたのが沖縄で、 奈良原県知事と対立していた 沖縄県人の謝花昇(1865~1908)です。 謝花は沖縄の自由民権運動の提唱者で 沖縄県民にも参政権を与えよという 運動していました。 二人は沖縄出身という事で 意気投合ここで弓太郎は 初めて自由民権運動 という

  • アジアの大物と交流を持った沖縄の国士

    沖縄の偉人というと、 全てが反戦平和思想 というのは正しくありません。 それは平和が嫌いという意味ではありませんが 大義の為に己の命を 平然と投げうつ 国士もいたのです。 その男は、1872年に南風原間切に産まれ 中国革命の父、孫文に献身的に協力し 中国国民党の総統、蒋介石をかつて部下に持ち 日本の大アジア主義者、 頭山満とも繋がりがありました。 沖縄人ですら、殆どがその名前を知らない その人の名

  • 琉球処分前後、小学校は恐怖の場所だった。

    琉球国の時代、教育は士族の子弟、 そして男子だけに限られていました。 上流階級の王妃ですら文盲という事が 珍しくなかったのです。 琉球処分後、明治政府は教育の拡充を 掲げて、小・中学校を造りましたが 琉球処分から9年経っても、就学率は 全国平均の47%に過ぎませんでした。 この理由は、これまで琉球国に 庶民の為の初等教育機関がなかった為 教育への理解が無かった。 そして、子供も大事な労働力で 学校

  • ネトウヨに似てる?末広鉄腸

    ネットで「琉球」と入れて検索すると 出てくる琉球への罵詈雑言の数々 特に基地問題と沖縄のアイデンティティ問題に 関しての書き込みは日本の言い分を押しつけ 反論に対しては、スパイ・工作員と レッテル貼りをする独善の一言です。 そのような琉球ディスなネトウヨにも、 遥か昔に元祖と呼べる人物がいました。 それが朝野新聞の 末広鉄腸(1849~1896)です。 末広鉄腸は藩閥政府を激しく攻撃する 自由民権

  • 琉球は薩摩の奴隷だったのか?

    西暦1609年以来、琉球は薩摩の島津氏に侵略され 以後は、鵜飼いの鵜のように富を吐きだして 薩摩に与えていたという話があります。 では、実際には、琉球に薩摩は どのように干渉出来たのでしょうか? 実は、薩摩から琉球に派遣されて来た 在藩役人は10名前後しかいません。 植民地帝国のように総督がいて、 その下に官僚がいるという感じではありませんでした。 インドを250年支配した英国は、 インド総督を頂

  • 琉球は中国に操られていたか?

    琉球の歴史というと、下の絵のように、 琉球は中国に操られていたんだ! と語る人に出くわします。 しかし、それは全くの出鱈目です。 例えば、それらの人達は、 「蔡温や謝名親方は三司官で 中国系ではないか?」 と言いますが、 琉球の最高行政職である三司官は、 400年で100名程出ました。 その中で中国系の三司官は、 たった、二人しか出ていません。 それが蔡温と謝名親方です。 しかも、蔡温の父は首里の

  • 琉球は差別語ではない

    最近は琉球という言葉は 中国から付けられた屈辱的な 名前だから使うのは良くないという 根拠のない話があります。 しかし、それは悪意のある曲解であり、 そもそも琉球という名前には 悪い意味はありません。 南海に浮かぶつるつるした宝玉 というのが琉球の意味です。 中国は大抵、周辺国には蔑視した名前をつけますが 琉球は例外的に美名でした。 ちなみに、日本に中国がつけた「倭」とは、 短足野郎、小人という意

  • 琉球に来たのは平家だった??

    運天港にやって来たもの、、 それは壇ノ浦の戦いで滅んだ 平家の落武者達でした。 落武者と言っても、平忠盛の代から日宋貿易で 富を蓄え、航路にも詳しかったインテリの平家は 裕福でありました。 そこで源氏に敗北した後、 再起を狙う土地を 探して、船を仕立ててたのです。 そして宋船に金銀財宝を積んで 最初から、琉球の運天港を目指して 船を出したのです。 逆に言えば、大型の宋船が入れる場所は、 当時の琉球

  • 琉球に来たのは源為朝ではなかった??

    琉球王朝の歴史を記した中山世鑑では、 琉球を統一した最初の王は、源為朝の子である 尊敦(そんとん)後の舜天であるとされます。 これは16世紀からの伝承で、伊豆大島に 流された源為朝が、さらに暴風雨で琉球まで 流れ、北部の運天港に漂着したという話です。 この時、小船で運天港に漂着した 為朝の鎧武者姿に島の豪族は びっくりしてひれ伏し草が風になびくように 配下になったとされます。 しかし、為朝は、どう

  • 進貢船が中国に到着するまでの期間

    琉球から出た船が中国の福州に入るまでには どの程度の期間が掛かったのでしょうか? それは、最短で4日間と言われています。 意外に速いですよね? ただ、これは順調に行った場合で、 長期になると30日という事もありました。 これは航海しているというより 久米島で良い風を待っていたからです。 どうして久米島で風を待つのか? これには、久米島が福州までの最短距離である という大きな理由がありました。 そし

  • 戦国時代の琉球人はどんな姿をしていた?

    琉球の戦国時代は、1320年頃から、 1429年まで、およそ100年に及びます。 その間、琉球は北山、中山、南山の3つの勢力に 別れて、戦っていましたが、彼等はどのような 姿をしていたのでしょうか? もしかすると、上のようなイメージかも知れませんね。 でも、それは歴史的にはブ―なのです、実際には、 このように大和の大鎧という鎧を着けて戦っていました。 1462年に琉球に漂着した朝鮮人の消徳誠は、

  • 1450年に琉球に伝来していた初期の鉄砲

    鉄砲というと、戦国時代に種子島に伝来した 火縄銃が有名ですが、 実は、それ以前から初期の鉄砲は、 琉球でも存在が確認されていました。 当時の中国は、既に刀と槍の戦いから 火砲を使った火力の戦争に移行しており、 以前は劣勢だった騎馬民族に対して、 防御戦で優位に立っていたのです。 飛び道具は敵を寄せ付けないで済み、 損害を小さくできるので、 騎馬民族にも海賊にも対応できたのです。 琉球も、倭寇対策そ

  • 琉球独自の通貨、大世通宝

    独立国の証として、その国独自の貨幣があるか? というポイントがあります。 貨幣には、時の権力者の横顔や、 年号、元号あるいは、王の名前が刻まれますが、 琉球は、15世紀の後半頃に、 大世通宝、世高通宝という 二種類の銅銭を発行しました。 ここには、大世、世高という王名が刻まれ 形も東洋に多い穴あき銭の形状をしています。 琉球は、これを海外貿易の決算に用いていたようです。 永楽銭では間に合わないので

  • 琉球は軍事大国だった

    貿易により富を蓄積していた琉球は、倭寇などの略奪を警戒し 人口八万人という小国ながら、軍船を基準とした軍事組織を発展させました。 それは4000名という規模であり、人口の5%に達します。 これを、現在の日本に当てはめると、600万人という規模になります。 当時の琉球は海外遠征もしており、結構な軍事大国だったのです。 史書には、何度か、那覇港に入ってきた海賊の船を撃退したとあり 国際社会の秩序と安寧

  • 庶民にも身近だった進貢貿易

    唐船どーい という歌は、中国からやってくる船を歓迎して、 庶民が走って那覇港に駆けつける様子をあらわした歌です。 そりゃあ、身内の人が無事に帰ってきたというのも ありますから、嬉しいでしょうが、、 現代の人間から見ると、少し違和感があります。 中国から来る船って言っても、積まれているのは貴重な宝物だろう? そんなの庶民には関係ないじゃないか・・ ところが、進貢船に満載されていたのは、宝物ばかりでは

  • ☆琉球に産まれた近代法典

    琉球国時代というと、時代劇のイメージで 「庶民の人権など顧り見られなかった暗黒時代」だと 思うかも知れませんが、それは間違いです。 琉球においては、それまでの経験則に頼った裁判を一新するべく、 1786年に伊江朝慶、幸地良篤が奉行になり琉球初の 近代法典である琉球科律が造り上げられました。 ※写真はイメージです。 さて、琉球科律がどうして近代法典であると言えるのか? それは、現在の刑法の常識である

  • ☆那覇港を守る2つの砲台

    那覇には、屋良座森と三重城という二つのグスク跡があります。 しかし、この二つのグスクは、一般的なグスクとは違います。  両方のグスクは長方形に石積みがされその内外には15個の銃眼がありました。  二つのグスクは那覇港の外海に向かって対になり  海賊の侵入を撃破する砲台だったのです。  実際に、西暦1556年、浙江省で暴れ回った  大海賊、徐海の残党が那覇港に侵入した事があります。  この時に尚元王

  • ・進貢船とは軍艦だった。

    琉球と言えば進貢船という程にセットの感のある進貢船ですが、 この船は軍艦だった事をご存じでしょうか?  元は、明の時代に海賊対策として省の海軍に配備された 払下げの船で、 大きさは550トンで、 収容人数300名という大型船でした。  軍艦とは言え、明王朝は武器まではくれなかったので、  琉球は装備品を倭寇などの海賊から購入しています。  それらの装備品は元は明軍から分捕ったものや、 横流し品だっ

  • ・混乱の元 第一尚氏と第二尚氏

    琉球史を複雑にしているのは、 第一尚氏と第二尚氏という 数字の連続性がある 二つの王朝の存在です。  しかし、この第一尚氏と第二尚氏の分類は、 歴史学的に根拠がある事では全くありません。  そもそも、この二つの王朝は姓が同じなだけ、  血統の共通性も無ければ 王朝を構成している人物も全く別、、  赤の他人王朝なのです。  では、どうして赤の他人王朝に、 第一、第二という 連続性がある数字が振られた