• 伊賀山人回顧録(川西編:39~41歳)

     北海道で不治の病に侵された伊賀山人は、関係上司から今後の昇任も昇給も諦めろとのご託宣を頂き、平成2年(1990年)8月、部隊勤務の第1線から追われて、兵庫県川西市にある某病院の企画室で勤務することになった。  仕事は、病院の業務計画の作成、医療監査の受検、医学会の計画実施の他に、野戦病院隊や緊急患者輸送隊の運用などの戦術教育に至るまで広く担当した。  迫りくる吐き気の中、重い体を引きずっての勤務

  • 伊賀山人回顧録(島松編:37~39歳得意から失意へ)

     昭和63年(1988年)8月、伊賀山人は、北海道恵庭市島松の某部隊に転属した。  此処での職務は、隊本部運用班長という作戦・情報担当の幕僚であった。  年明けの昭和64年正月、北海道では初めてとなる日米共同演習が行われることになった。  2年前に東北初めての同演習に参加したばかりの伊賀山人にとっては、運が良いというか悪いというか、部隊総員500名の中から僅か5名の参加者の中に予想通り含められた。

  • 伊賀山人回顧録(仙台編:35~37歳)

     昭和61年(1986年)8月、伊賀山人は中隊長として仙台に赴任した。  着任後、直ちに部隊の人員・装備・施設を掌握して、業務を開始した。  【岩手山演習場にて】  毎月、野営訓練を行って、部隊の練度の維持向上を図った。  写真は、岩手県での野営終了後の記念写真である。  後ろの山が、岩手富士或いは巌鷲山(がんじゅさん)とも呼ばれる岩手山(いわてさん)である。  【幹部親睦会】  相も変わらず、懇

  • 伊賀山人回顧録(土浦編:33~35歳)

     昭和59年3月、伊賀山人は茨城県稲敷郡阿見町にある某学校に入校した。  就学期間が、丁度1年有ったので、それまでの入校とは異なり、この学校への転属となった。  なお、所在地は、土浦市の隣の阿見町であるが、駐屯地の名称が土浦駐屯地であるので、通称土浦と呼ばれている。  【卒業記念写真 S60.3.1】  この課程の選抜試験を1回で合格する者は珍しく、学生の中では伊賀山人が最年少であった。  この課

  • 伊賀山人回顧録(宇治編:31~33歳)

     昭和57年3月、伊賀山人は、京都府宇治市にある某補給処弾薬部の技術班長に補職された。  この職は、近畿・中国・四国の各地に保管されている弾薬類の検査・整備の管理統制や火薬庫の保安検査、不具合発生時の調査研究などの業務に携わるものである。  思えば、兵隊の階級で言うと少尉任官以来8年、初めて兼務のない単一の職に就いた。  お蔭で、仕事にも余裕ができて、日曜・祝日なども人並みに休むことができるように

  • 伊賀山人回顧録(再度の伊丹編:29~31歳)

     昭和55年(1980年)29歳になった伊賀山人は、3月、再び兵庫県の伊丹に転勤することになり、3年半にわたる北の大地での生活に終止符を打った。  伊丹での所属は前回と同じ部隊であったが、某師団司令部への出向勤務となり、弾薬幹部兼不発弾処理幹部に補職された。  此処での2年間は、師団の弾薬類の補給整備の統制や、各種訓練演習のほか、近畿2府4県の警察署や裁判所からの要請に応じて、民生安定のための不発

  • 伊賀山人回顧録(旭川編その1:26・27歳)

     昭和52年から53年にかけての写真は、あまり多くは残っていない。  業務多忙で、元々あまり多くの写真を撮っていなかったし、39歳の重病発症時に終活の一環として処分してしまったためである。  【稚内 日本最北端の地 S52、26歳の春】  北海道各地の演習場を巡って転地訓練するための訓練計画作成に資する事前現地偵察のときのものである。  【部隊訓練時の集合写真】  これは、その後部隊訓練で稚内を訪

  • 伊賀山人回顧録(伊丹編その3:25歳そして旭川へ)

     昭和51年、年明け早々、伊賀山人は茨城県阿見町にある某学校の幹部弾薬課程に入校した。  この課程では、弾薬類の構造機能や補給整備などの業務運営、弾薬支援組織の構成と部隊の運用などについて造詣を深めた。  【卒業記念写真 S51.4.28】  この課程の期間は、1月19日から4月28日までの約3箇月間であった。  伊賀山人の右に写っているのは、親友のTである。  某大入校時に同室になって以来、これ

  • 伊賀山人回顧録(伊丹編その2:24歳)

     昭和50年(1975年)正月早々、伊賀山人は滋賀県大津市にある教育隊に臨時勤務(出向)することとなった。  区隊長として、3月に入隊する新隊員の教育を担任するためである。  2月までは教育準備期間であり比較的余裕があったが、3月に新隊員が入隊してからは寝食を共にして公私にわたり教育する必要があったので、ほぼ4箇月間休みはなく、伊丹の下宿に帰ったのは3日間くらいであった。  それでも、火薬類取扱保

  • 伊賀山人回顧録(伊丹編その1:23歳)

      伊賀山人挨拶  未だに馬齢を重ねている伊賀山人ですが、不惑の前年39歳のとき、大病を患いました。  死期を悟ったその頃、思い出の品々やアルバムなどの大半を廃棄処分してしまいました。  今まで、回顧録で紹介した写真やトロフィー、儀礼刀などは、全て昨年世を去った父親が保管していたものです。    その為、23歳から50歳ころまでの写真はほとんど残っていません。  「写真で綴る回顧録」の執筆には甚だ

  • 伊賀山人回顧録(久留米にて、その2:22歳卒業)

     久留米の某学校の修業期間は約半年であり、9月19日で卒業であった。  その半年の間に、学科だけでなく野外訓練も多くあった。  【築城訓練】  野営訓練において、陣地の前に有刺鉄線を張る準備をしているところである。    【野営訓練打ち上げ会】  一仕事終わると、必ず打ち上げ会である。  【100Km行軍】  今はどうか知らないが、この当時は、行軍は市町村の中の一般道で行っていた。  重き荷を負う

  • 伊賀山人回顧録(久留米にて、その1:22歳入校)

      回顧録再開にあたってのご挨拶  伊賀山人には、語るほどの学歴も職歴もありません。  更に、職務に関することにつきましては、守秘義務もあり、また機微な情報も含まれますので、敢えて公開は致しません。  よって、文中の人名・地名・団体名・職務名などは全て仮名と致します。  昭和48年(1973年)3月、某大を卒業した伊賀山人は、4月に福岡県久留米市にある某学校に入校した。  【久留米にある某幹部候補

  • 伊賀山人回顧録閲覧御礼

     約2箇月に亘り、延々と続けてきた「伊賀山人回顧録」も、伊賀山人22歳小原台の青春編の完結を以て一先ず終了と致します。  この間、数少ない熱心な読者の方々には、欠かさずご高覧を頂き有難うございました。    思い起こせば、何一つドラマチックなエピソードも感動的な出来事もなく、只々恥ずかしきことのみ多かりし青春でありました。  学歴・職歴共に語るほどのものもなく、かくも個人的かつ世間離れした特殊な記

  • 伊賀山人回顧録(小原台の青春その19:22歳 卒業)

     卒業式は、1973年(昭和48年)3月21日であった。  その前夜、学生食堂で全学生2000人が集う合同送別会が行われた。    卒業論文も無事合格して、めでたく卒業の運びとなった伊賀山人は、その日までに官品を返納し、私物は、次の赴任先と実家とに分けて国鉄の小荷物で発送し、卒業準備を完了していた。  【前夜合同送別会に現れた伊賀山人】  送別会は、学生食堂の中で居室ごとに場所取りをして、在校生は

  • 伊賀山人回顧録(小原台の青春その18:22歳 卒業準備)

     1973年(昭和48年)1月空手部を引退した伊賀山人は、卒業準備に余念がなかった。  2月の誕生日以降は、目の回る忙しさであった。    【昭和48年2月8日 この日22歳になった伊賀山人】  【卒業研究中の伊賀山人】  研究テーマは、「カメラの解像度」、実は、その内容は、高校生の時に既に大方知っている内容であった。  研究は、伊賀山人の知識に基づくその理論を裏付ける実験が殆どであった。  とは

  • 伊賀山人回顧録(小原台の青春その17:21歳 いつまでも…)

     年が明けて、1973年(昭和48年)1月、空手部4年生は、卒業研究と卒業論文作成に精力を集中するため、恒例により空手部を引退することとなった。  例年通り、道場で4学年送別演武会が開催された。  【後輩の演武を見守る4年生】  いつものように、後輩による試割りなどの一連の演武から始まった。  一番奥に座って足を組んでいるのが伊賀山人である。  【4学年の演武する「観空大」】  後輩の演武が全て終

  • 伊賀山人回顧録(小原台の青春その16:21歳の冬)

     1972年(昭和47年)、卒業も間近に迫ってきたが、伊賀山人は相変わらず、空手修行に明け暮れていた。  また、各種行事も例年通り行われていた。  【シンポジウム 1972.12月頃】  某大では、各界の知識人を招いて、しばしば部外講話やシンポジウムを開催していた。  写真は、政治家による「今後の日本の安全保障の在り方」を考えるシンポジウムである。  パネリストの石原先生は自民党、永末先生は民社党

  • 伊賀山人回顧録(小原台の青春その15:21歳の秋開校祭)

     開校祭も某大の主要行事の一つである。  そのメインは、パレードを伴う式典であるが、その他に各運動部や文化部の活動状況の紹介、棒倒しなどの競技、各種コンテスト、前夜祭など盛りだくさんの行事がある。  伊賀山人は、前夜祭には毎年空手の演武で参加していた。  その後、ギャラの安い新人歌手によるコンサートで前夜祭のお開きとなるのが、通例であった。  1972年(昭和47年)の前夜祭コンサートに来校したの

  • 伊賀山人回顧録(小原台の青春その14:21歳の夏学生生活と最後の試合)

     1972年(昭和47年)夏、卒業まで残すところ半年となり、伊賀山人は、学生生活を写真に残すことにした。  【当時使っていたカメラ】  型名は忘れてしまったが、当時使用していたハーフサイズのオリンパスペンを手にする伊賀山人である。  この写真は、一見、左手でシャッターを押しているように見えるが、実は、鏡に映った自分を撮影しているのである。  その後、後輩をカメラマンに仕立てて、このカメラで日常の生

  • 伊賀山人回顧録(小原台の青春その13:21歳の夏別府)

     1972年(昭和47年)8月13日午前中に由布岳を下りて、裸足のままでバスに乗って別府に向かった。  別府に着いて、新しいビーチサンダルを購入し、昼食も食べてご機嫌の伊賀山人は、高崎山見物と別府地獄めぐりをする観光バスに乗った。  【観光バスの乗車券と高崎山の親子猿】  先ずは、大分市の高崎山であるが、ここは猿の天国である。  自然動物園内に、千数百頭の猿が放し飼いになっている。  写真は、また

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