• 五島列島・福江島

    「よくばり!五島列島と壱岐・対馬の旅4日間」の最終日は五島列島・福江島。見どころは、「堂崎天主堂」「武家屋敷通り」「大瀬崎断崖展望台」「井持浦教会」「高浜ビーチ」「遣唐使ふるさと館」などなど、ほぼ福江島を一周するコースを辿ったが、私が最も面白かったのは、その案内に立った女性ガイドの「説明ぶり」であった。本人の弁によれば、容貌は「和田アキ子」然、口調は「上沼恵美子」風。その一言一言が、抱腹絶倒の連続

  • 「夜と霧」(ヴィクトール・フランクル・みすず書房・1956年)

      久しぶりに、ということはおよそ40年ぶりに「夜と霧」(ヴィクトール・フランクル, 霜山徳爾訳・みすず書房・1956年)という本を読んだ。〈ドイツ強制収容所の体験記録〉という副題がついている。なぜ読んだのか・・・。たしか、この本の著者は心理学者ではなかったか。そして「人間の生活にとってニコチンとアルコールは不可欠である」というような見解を示していなかったか。そのことを確かめたくて読み始めたが、な

  • 新「唯物論」

    「唯物論」とは何か。フリー百科事典『ウィキペディア』によれば、以下のように説明されている。〈唯物論は、事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。非物質的な存在や現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。物理主義、ともいう。対語は唯心論〉。  ただ、私が思うのは、そんな高尚なことではない。私たちの生活(人生)にとって、大切なことは「物」なのか、「心」な

  • ある自殺者の話

     闇の向こうから、一人の男がふらふらとやって来る。足が地についていないようだ。といっても、それはあたりまえ、ここは冥界なのだから。どうやら、私同様に、「魂魄この世に留まりて」といったケースに見受けられる。私と対面するなり、涙を流しながら「ごめんなさい」と謝った。「どうしましたか」と尋ねると、男は堰を切ったように話し出した。「よく聞いてくださいました。私は今、申し訳ない気持ちでいっぱいです。これまで

  • 「山のあなた」(カール・ブッセ)

     以下のとおり、「山のあなた」(カール・ブッセ 上田敏訳『海潮音』より)という詩がある。 〈山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ。ああ、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く「幸」住むと人のいふ〉  さて、「幸」とは何だろうか。私は長い間、ずっとずっと、それは「愛する人と一緒にいることだ」と思っていた。だから、上の詩は「山の向こうの、遠い遠い所に『愛する人』がいるはず

  • 小説「桜の森の満開の下」(坂口安吾)の《眼目》

     小説家・坂口安吾の作物に「桜の森の満開の下」という佳作がある。初出は1947年(雑誌「肉体」・暁社)だが、その後、映画(監督・篠田正浩、出演・若山富三郎、岩下志麻・東宝、1975年)や絵本(福田庄助・審美社、1990年)、コミック(近藤ようこ・小学館、2009年)等に作り替えられたり、英訳(ロジャー・パルバース訳・筑摩書房、1998年)されたりもしているので、かなり「有名」な作物に違いない。筋書

  • 寺山修司の作物二つ

     歌人・寺山脩司は「作詞家」でもあった。その作物に「浜昼顔」という佳作がある。詠って曰く「家のない子のする恋は たとえば瀬戸の赤とんぼ ねぐら探せば陽が沈む 泣きたくないか日ぐれ径 日ぐれ径 たった一度の恋なのと 泣いてた君は人の妻 ぼくは空ゆくちぎれ雲 ここはさい涯北の町 北の町 ひとり旅立つ思い出に 旅行鞄につめてきた 浜昼顔よいつまでも 枯れるなぼくの愛の花 愛の花」。なるほど、一語として無

  • 映画「カサブランカ」(監督マイケル・カーチス・1942年)

     映画「カサブランカ」(監督マイケル・カーチス、原作マーレイ・バーネット、出演ハンフリー・ボガード、イングリッド・バーグマン、ポール・ヘンリード、クロード・レインズ・1942年)《「世界名作映画BEST50」DVD・KEEP》を観た。「作品解説書」には以下の通り述べられている。〈この映画を見ずしてアメリカ映画を語れない。と言われるほどの名作である。ドラマチックでスリリングで、反ナチの思いが強烈に語

  • 映画「肉弾鬼中隊」(監督・ジョン・フォード・1934年)

     映画「肉弾鬼中隊」(監督・ジョン・フォード・1934年、世界名作映画DVD)を観た。解説には〈ジョン・フォード監督としては珍しい戦争映画。第一次大戦中、砂漠に迷って敵に囲まれてしまった英国中隊が反抗するかという壮絶なアクションをお楽しみいただきけます〉とあったが、内容は「壮絶なアクション」とは無縁、とはいえ、というより、だからこそ「戦争の愚かさ、むなしさ」を根底から告発する「不朽の名作」に仕上が

  • 千の詩(法句経)

    最近、ほとんど作文をしていない。そのわけは、「法句経」の中に次のような詩句を見つけたからである。〈「千の詩」 無益な語句を 千たび語るよりも 聞いて心の静まる有益な語句を 一つ聞く方が すぐれている  無益な語句よりなる詩が 千もあっても聞いて心の静まる詩を 一つ聞く方が すぐれている〉(「智恵のことば」・浄瑠璃寺住職・佐伯快勝著・淡交社・2008年)〈この「法句経」は最もはやい時代に成立した教典

  • 私はまだ生きている、65歳

     私はまだ生きている、65歳。なぜ?、などと考えてみたところで、答が見つかるはずがない。生きているから生きているのである。でも、「生きる」ことは苦しい。「苦」とは、仏教用語で「思い通りにならない」由。早く死にたい。死ねば「楽」になる(はずだ)。友だちのS君は逝った。知人のA氏も逝った。今度は私の番なのだ。どうすればよいか、頭ではわかる。食を断とうか。でも絶つことができない。まだ「未練」があるのだ。

  • 京都大原・《阿弥陀寺》

     京都大原といえば「三千院」というところが相場だが、どうしてどうして、それ以上の見所があることを御存知か。その名を「古知谷・阿弥陀寺」という。大原から滋賀方面に若狭街道をバス(小出石行き)で10分、停留所「古知谷」下車、徒歩20分で到達する。この路線バス、大原より先はどこでも「乗り降り自由」、したがって運転手に「阿弥陀寺に行きたい」といえば、参道入り口で降ろしてくれる。ただし、バスの本数は極端に少

  • 京都・東山銀閣寺・《銀沙灘の謎》

     京都・東山銀閣寺に赴く。その目的は参拝でも観光でもない。過日読んだ名著「日本の伝統」(岡本太郎・光文社知恵の森文庫・2005年)の中の一章「銀沙灘の謎」を確かめるためである。岡本太郎は以下のように述べている。〈銀閣寺の銀沙灘はまったく、だれにも意外なものであるに違いありません。正直にいって、はじめて見たとき、私じしんがギクッとしました。(中略)門をくぐって入ったとたん、目の前に、胸高いところまで

  • 「日本の伝統」(岡本太郎・光文社・2005年)・《「庭論」の魅力》

    「日本の伝統」(岡本太郎・光文社・2005年)を読んだ。巻末の〔編集部〕によれば、〈本書は『日本の伝統』(光文社・1956年刊)に「伝統論の新しい展開」(角川文庫版および講談社現代新書版には収録済み)を加えて、再編集のうえ文庫化したものです〉とのこと、50年以上も前の作物だが、たいそう面白かった。岡本太郎の主張は「講談社現代新書版 はじめに」の冒頭で、以下の通り明解に述べられていた。〈伝統とは何か

  • 「犀の角」(ブッダの言葉)

     人は誰でも、誰かと一緒に暮らしている。その誰かとは、例えば親、例えば恋人、例えば配偶者、例えば子・・・。一緒に暮らすということは、単に同居することではない。「心を重ねる」ということである。「心を重ねる」ということは、お互いに相手を必要と感じ、その人と顔を合わせ「対話をしたい」と思うことである。その人と一緒にいると、心が安定し、生きる意欲(元気・やる気)が湧いてくるということである。ところが、その

  • 「生きていく(成仏できない)私」

     いったい私は何のために生きている(成仏できない)のだろうか。そんなことはわかるはずがない。強いて言えば、(自分の意思とはかかわりなく)「生まれてしまったから」生きているのである。つまり、私は、「自分から生まれよう」と思って生まれてきたのではない。では誰の意思か。直接的には「両親」の意思ということになるだろう。だがしかし、私の場合、(伝聞に依れば)父親よりも母親の意思の方が強かった。事実、私は両親

  • ひろさちや、という人を御存知か

     ひろさちや、という人を御存知か。「(本名・増原良彦)略歴 昭和11年、大阪市に生まれる。昭和35年、東京大学文学部印度哲学科卒業。昭和40年、同大学院博士課程修了。その後、気象大学校講師となり、20年間教壇に立つ。現在、「まんだらの会」会長、仏教思想の研究、執筆、講演に活躍中。著書『仏陀に還れ』(主婦の友社)、『仏教とキリスト教』(新潮選書)、『仏教の世界観』(すずき出版)、他 多数。」〈「ひろ