• 落とし物

     北海道・富良野、美瑛のフラワーガーデンを満喫して帰路に就く日、北海道大学札幌キャンパスに立ち寄った。古河講堂、クラーク像、ポプラ並木、大野池を経て、札幌農学校第二農場へと向かう。「都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ)・・・夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて・・・人の世の 清き国ぞとあこがれぬ」と詠った往時の学生の息吹も蘇り、感動的な時間を過ごしていたが、電車の出発

  • 私の戦後70年・メエ婆

     私は母方の祖母をメエ婆と呼んでいた。メガネをかけていたからである。彼女は、戦前から「祖父に分家させられて」、娘一人とともに下宿屋を営んでいた。近くにある旧制高校の学生が多く利用したという。私の父もその一人、母は下宿屋の娘ということである。父は成人して満州に渡り、母もその後を追ったが、私を出産後まもなく病死した。私は娘の忘れ形見というわけで、メエ婆はことのほか私を溺愛したように思う。そのためか、私

  • 私の戦後70年・静岡浅間神社廿日会祭

     静岡市の浅間神社では恒例の廿日会祭が四月初旬に開催される。小学生の私は、毎年春休みになると、亡母の実家がある静岡の祖母宅に帰省して、そのお祭りを楽しんだ。満開の桜が散り始める神社の境内では、神楽舞台の他、大衆芸能の余興用舞台、オートバイサーカス、お化け屋敷、見世物小屋などが特設される。仲町から赤鳥居までの参道には露天商の屋台が「綺羅星のごとく」連なっている。私は、小銭をポケットに、それら一つ一つ

  • 私の戦後70年・「太郎花子国語の本」(教科書)

     小学校の国語教科書は「太郎花子国語の本」であった。一年から六年まで一貫して太郎、花子の兄妹が登場し、その生活が描かれる。今、私の手元には「おはよう」「あかいとりことり」「ゆうやけこやけ」(一年上中下))、「ひばりのうた」「青いお空」(二年上下)、「みどりの教室」(四年上)「田園のしらべ」(六年上)が残存している。「おはよう」の巻末には〈みなさんがこれからだんだんおおきくなるにつれて、たろうさんた

  • 私の戦後70年・蓄音機

     昭和26年、上京した父と祖母、私の三人は山の手の親類宅に「仮住まい」した。親類の家族は四人、合わせて七人が八畳、六畳、三畳、物置、台所の瀟洒な平屋住宅で雑居することになった。当時の娯楽はラジオ中心、一同は「のど自慢」「二十の扉」「とんち教室」「三つの歌」「今週の明星」等々の番組を楽しんだが、親類宅には年代物の手動蓄音機があった。ハンドルをぐるぐる手回しして、鉄の針をレコード盤にのせると、摩擦音に

  • 私の戦後70年・キャラメル

      昭和20年代後半、小学生男児の嗜好品はキャラメルであった。その魅力は何よりも強力な「甘味」だが、それ以上に箱の中のカードの一枚、一枚が射幸心を煽った。東京では「紅梅キャラメル」「カバヤキャラメル」が覇を競う。紅梅のカードは「ヒット」「二塁打」「ホームラン」などと記されており、集めて得点すると巨人軍選手の名鑑をゲットできる。さらに監督・水原、投手・大友、中尾、野手・川上、千葉、宇野、平井、与那嶺

  • 私の戦後70年・白いかげろう

     私が物心ついた昭和20年代半ばから30年代にかけて、白衣をまとい戦闘帽を被った   男たちが、都心の街角、祭礼の境内、電車の通路など「人混み」の中に出没した。彼らは、たいてい二人一組となって、一人がアコーディオンを奏で、他の一人が軍歌を唄う。「さらばラバウルよ また来るまでは・・・」その光景を目にすると、人々の表情は一様にこわばり、眼を伏せる。まだ小学生だった私でさえ、白衣からむき出た義手・義足

  • 私の戦後70年・遠足

     毎年、春・秋にある小学校の遠足は、その日一日勉強をしなくてよいというだけで、楽しかった。一年・井の頭公園、二年・向丘遊園地、豊島園、三年・ユネスコ村、浜離宮、四年・相模湖、江の島、五年・稲毛海岸、高尾山、六年・城ヶ島、箱根と重ねられた楽しい思い出がアルバムに残されている。しかし、一年・春の一枚だけが欠けている。その日は朝から雨模様で、遠足は「中止」という連絡が来た。私は定時にランドセルを背負って

  • 私の戦後70年・白いカーネーション

     五月といえば端午の節句、鯉のぼりが空に舞い青葉の美しさが際立つ季節だが、私の心は曇っていた。恒例の「母の日」がやって来るからである。小学校2年の時、担任の先生は「お母さんのいない人は、天国のお母さんに感謝しましょう」と言って、私と、K君、H君に「白いカーネーション」を手渡した。「自分だけではない」と私は安堵した。しかし、物心ついた時から母の姿を知らない私には、感謝する術がない。やり場のない憤りが

  • 私の戦後70年・金魚

     小学校二年頃のことだったか、私は秋祭りの夜店で金魚すくいをした。収穫は和金一匹、ビニールの袋に入れて持ち帰ったが金魚鉢がない。やむなくコップに入れて玄関先に置いた。しかし翌日には和金の姿は消えてしまった。あまりの狭さに跳び出してしまったのだろう。消沈している私を見て、父は豪華な太鼓型の金魚鉢を購入、数匹の琉金を入れてくれた。以後、濁った水の交換や金魚鉢の洗浄は父の担当になったが、ガラスの鉢は滑り

  • 私の戦後70年・祖母の葬儀

     昭和28年1月4日、焼き場は順番を待つ棺でごった返していた。祖母の棺を窯に入れたが、その数分後、誰かが叫んだ。「違う!違う!お棺を間違えた」、一同「えええっ」と驚き、係員が窯の扉を開けて、「熱い!熱い!」と言いながら、再び、祖母の棺を取り出した。釘付けされた蓋を、大急ぎで打ち破る。一同、おそるおそる覗き込んだが、中には白菊に囲まれた祖母が。間違いなく横たわっていたのである。一度窯に入れた棺を取り

  • 私の戦後70年・《障子の中》

     昭和27年の大晦日、祖母は当時大流行したインフルエンザで病死した。焼き場は「三が日」が終わるまで休業、父と私は祖母の棺と、間借りの八畳一間で「空しい正月」を過ごさなければならなかった。「棺を見守りなさい。生き返るかもしれないから」などと言う父の言葉を信じて・・・。線香の煙と、供物の林檎の匂いが入り交じって、異様な空気が漂う中、私の心中には「障子の中に障子ありて障子なし」」という言葉が浮かんでくる

  • 私の戦後70年・祖母の死

     昭和28年元旦、その日は快晴であったが、私の心は、どんよりと曇っていた。前日の大晦日、同居していた祖母が、当時大流行していたインフルエンザで、息を引き取ったからである。母はすでに亡く、父と祖母の三人で、八畳一間の「間借り生活」をしている時であった。祖母は72歳、10日間ほど床についた後の、あっという間の臨終であった。日々の看病(下の世話)は、(7歳の)私が担当する。溲瓶の色が黄色から橙色に変わる

  • 私の戦後70年・指しゃぶり

     物心ついた時から、私は両手の親指をしゃぶっていた。そうすると、気持ちが落ち着くからである。退屈なとき、淋しいとき、入眠するときは必ずしゃぶっていた。祖母は、親指に包帯を巻き付けたり、辛子を塗ったりして止めさせようとしたが、効果はなかった。父も気に病んでいたようだが、表情を曇らせるだけで何も言わなかった。子どもにとって母親の感触、温もりは不可欠、それを奪ってしまった悔恨と、与えられないもどかしさが

  • 私の戦後70年・登校拒否

     昭和26年4月、小学校に入学した私はまもなく「登校拒否」状態になった。理由は単純、仲よしの友だちができなかったからである。近所には同級生もたくさんいたが、彼らは幼稚園時代からの知り合いで、その輪の中になかなか入れない。静岡弁まるだしの私は、その度に笑われた。登校時になると、家の柱にしがみつき、泣きじゃくる。祖母は呆れて「そんなことでは偉くなれないよ。お父さんの職場に行けばいい」と言う。見かねた親

  • 私の戦後70年・小学校入学式

     昭和26年4月、新しいランドセルに草履袋、革靴、学帽、よそゆきの洋服・・・、「ピカピカの一年生」の装いで、私は入学式に臨んだ。しかし、学校に対する恐怖心は増すばかりで、「泣き通し」の一日であった。セピア色になった記念写真には、当時の「泣き顔」が残されている。式が終わって、新入生は教室に入った。皆、自分の名札が貼られた席に座り、ランドセルを机上に置いている。担任のM先生もやって来て、自己紹介のあと

  • 私の戦後70年・身体検査

     昭和26年2月、私は東京の小学校に入学するために上京させられた。まもなく、学校の身体検査(現在の就学時健診)があった。激しい雨の中、親類の女性に伴われて入学する小学校に向かったが、私はすべての検査を「泣いて」拒否した。薄汚れた校舎、厳しい表情で指示する教員、新入生を世話する上級生、東京弁で楽しそうに会話する就学児等々、これまでとは全く異質な環境に恐怖を感じたからである。皆と離れて、私は一人、教頭

  • 私の戦後70年・アンヨ婆

     父方の祖母を、私は「アンヨ婆」と呼んでいた。彼女は関東大震災で左足を負傷し、膝下を切断、義足を装着していた。松葉杖で歩行するので荷物が持てない。祖母が銭湯に赴くときは、小学校1年の私が随行する。脱衣所に入り、祖母が義足を外そうとするのを、子どもたちが取り囲み、こわごわと見つめている。彼らの視線は、祖母の義足、現れ出た脚へと移り、最後は私の顔に注がれる。顔を真っ赤にして、私はうなだれる他はなかった

  • 私の戦後70年・夜のプラットホーム

     昭和26年2月、父・祖母に伴われて私は静岡を出立、東京に向かった。列車が東京に近づく頃はもう夜だった。横浜を過ぎた頃,車掌がやって来て「東京駅構内で事故が発生しました。この列車は品川止まりになります」という。乗客には不安が走った。今日のうちに目的地まで行き着くことができるだろうか。降り立った品川駅のホームはトンネルのように暗かった。「シナガワー,シナガワー,ケイヒントーホクセン,ヤマノテセン,ノ

  • 私の戦後70年・上京

     昭和26年2月、私は父と祖母に伴われて上京することになった。静岡駅で東京行きの列車を待っていると,下りのホームにアメリカ兵が鈴なりに乗っている列車が入ってきた。彼らは,上りのホームで待っている私たちに向かい,大きな叫び声をあげながらチョコレート,キャラメル,チューインガム,ヌガーなどの高価な菓子類を,雨あられのように投げてよこした。上りホームの日本人たちも,歓声をあげて一つでも多く拾おうとする。

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