• 「イスラム国」と「わが国」の《共通点》

     武装集団「イスラム国」の思想・信条・戦略・戦術には、「わが国」との《共通点》が仄見える。「わが国」日本も、つい70年前までは、《八紘一宇》という標語のもとに、「撃ちてし止まん」「欲しがりません勝つまでは」といった(押しつけられた)信条が、巷間を闊歩していた。戦略は「大東亜共栄」と「鬼畜米英」、「わが国」民の男子は、すべからく「戦闘員」として「萬朶の櫻か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれな

  • 「サプール」と呼ばれる男たち

     午後10時から「地球イチバン・世界一服にお金をかける男たち」(NHK)という再放送番組を観た。コンゴ民主共和国の「サプール」に関するレポートである。詳細は以下のように紹介されている。〈あのポール・スミスも刺激を受け、コレクションに反映させたというコンゴの紳士たち。土煙舞う道端を、色鮮やかなスーツに身を包みかっ歩する。彼らはサプールと呼ばれ、ひとたび現れると、人々が家々から飛び出し、喝采を送る街の

  • 《老い》の日々

     昇る朝日を仰ぎ見ながら「今日も一日、無事であれかし」と祈り、その日の終わりには、沈む夕日に感謝する、という毎日を送らなければならない。年寄りの「幸せ」とは、そのようなものであろう。もはや、「やるべき」ことは何もない。ただ、おのれの呼吸が止まらないことを祈るだけなのである。過ぎ去った昔の思い出は「走馬灯」のように、浮かんでは消え、消えては浮かんでくるものの、文字通り「やんぬるかな」、すべては「幻」

  • 「授業で道路清掃」の《意味》

     東京新聞12月19日付け朝刊・「発言」欄に、「授業で道路掃除とは?」という記事が載っている。筆者は、校外で清掃活動を行っている生徒たちの様子を見て、「文部科学省のカリキュラムですか」と若い教員に尋ねたところ、「いいえ、区の・・・」という答が返ってきたそうだ。筆者はその活動を「思いがけない光景」として受け止めた。生徒たちは教室の中で「自由・平等・博愛・戦争・平和・日本史・世界史・人権・権利・義務」

  • 「君たちに憎しみをあげない」

    パリ同時テロで妻を失った仏人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリス氏がフェイスブック上に綴った「君たちに憎しみをあげない」という文章を読んだ。この文章は19日現在20万回以上共有され、世界中に共感が広がっているという。私もその共感者の一人だが、まず何よりも、テロリストに向かって「君たち」と呼びかけている点が素晴らしい。レリス氏はテロリストとの間に「私→君」という二者の関係を築いた。しかも、その関係は

  • 私の戦後70年・ラグビー

     高校の体育の授業は「ラグビー」が必修であった。まず、楕円形のボールを相手の胸元にパスする練習、その時ボールが回転しないようにしなければならない。次は、横一列に並んで走りながらするラインパス、さらにフォワードとバックスに分かれてのフォーメーション、スクラムの組み方、タックルの仕方、ラインアウトのキャッチング等々、学習内容は多種多彩であった。私は背が低く体重も軽かったので、フォワードの2番、フッカー

  • 私の戦後70年・生徒会役員選挙

     高校三年になった新学期、私は文芸部の仲間を誘って生徒会役員の選挙に立候補した。「高校は大学の予備校ではない、本来の高校生活を楽しもうではないか。学校はただちに受験教育を止めるべきである。学業成績による序列にとらわれず、本当の学問を始めよう。文化、スポーツのサークル活動を活発にし、個性を伸ばそう」と訴えた。会長候補は私一人、副会長、会計、専門部役員候補にも文芸部員を立てたが、結果は惨敗・・・。かろ

  • 私の戦後70年・浄瑠璃寺

     高校二年の春休み、知友六人で京都・奈良・大阪方面を訪れた。一足早い「修学旅行」を気取っていたが、リュックサックにテント持参、食糧はアメヤ横町で調達、早朝の鈍行列車で東京駅を出発、京都、木津を経て加茂駅下車、そこから徒歩で浄瑠璃寺に向かう、10時間以上かけての「山行」であった。私たちは近隣農家の許可をもらって参道入口脇の窪地にテントを張った。境内を散策、本堂の九体仏、吉祥天立像を拝観した後、食事は

  • 私の戦後70年・山の男

     高校の文芸部には山岳部部員Mもいた。Mは両親と死別、叔父夫婦のもとから通学していた。早熟で「60年安保闘争」にも参加していた。先輩の詩作「《Revolution》革命と/訳されるが/日本の社会には/いまだ/訳されない/」に共鳴し、文芸部に入部したのであろう。Mはまた山を愛し、穂高、槍ヶ岳、谷川岳等々、数多くの登山を経験していた。私たちはその体験談に耳を傾け、岳人特有の隠語も学んだ。「キジを撃つ」

  • 私の戦後70年・戦争の話

     中学校のN先生は保健体育を担当したが、生徒にせがまれると時折り「戦争の話」をしてくれた。先生は体操競技を専攻し、とりわけ鉄棒の演技が得意であった。「日頃から運動で体を鍛えていたので、私は戦地から生還できた。極寒の埠頭に重装備のまま降りたとき、表面の氷で軍靴が滑り海中に転落する者が続出した。私は右手小指一本が岸壁にとどまり、徐々に他の指をかけて這い上がることができた。敵地に突入すると無数の落とし穴

  • 私の戦後70年・浪人生詩人

     高校の文芸部の中で、石賦助(ペンネーム)は見るからに温厚・柔和な風貌で、目立つ存在ではなかったが、彼の詩作は際立っていた。今、手元に残存する詩集の中に以下の作品がある。《真間川にて》たそがれの/真間川の/ふちの/野いちご//赤い/野いちごの/影はとかげ//とかげよ//真間川の/岸のコンクリートに/はしれ/  卒業後、私の下宿に転がり込んで「受験勉強」をしていた浪人生詩人・石賦助、練炭火鉢をそのま

  • 私の戦後70年・文芸部

     高校では文芸部に所属した。今、私の手元には当時の文集、詩集が残存している。作品はいずれも青春特有のメランコリーに覆われている。表現は生硬、未熟で採るに足らな代物だが、「若気の至り」の記念として一編の詩を記したい。《かげろう》十二月になると/街角から/白いかげろうが/立ち/祈る/平和/もう誰も知らない/戦争とやら/ある筈なのに/消してはならない/消えはしない/あの貫通銃創が/その羊のオーバーに/か

  • 私の戦後70年・美術の授業

     高校の授業の中では「美術」が好きだった。石膏像のデッサンから始まり、水彩の静物画、風景画へと進み、デザイン、陶器皿の絵付けで終わった。一つの作品が完成すると、それを並べて、担当のT先生が批評する。先生は「事物をよく見なさい、頭の中で描いてはダメだ」と言いながら、生徒の作物を楽しそうに鑑賞していた。私は、墨のデッサンでアグリッパ胸像を描いた。先生は「ウン、よく見ている」と肯いたが「でも右下のK・I

  • 私の戦後70年・高校

     昭和35年4月、私は東京郊外の公立高校に進学した。広い敷地には、木造校舎、食堂、図書館、体育館、プール等が立ち並び、校門から校舎玄関までは銀杏並木が続いていた。校則は緩く、下駄(朴歯)履きが許されるなど「自由」な雰囲気であったが、授業の内容は大学受験「一辺倒」で、学期末には成績優秀者の氏名が掲示される。私の学習意欲は激減し、授業に対する関心は消失した。高校は大学の予備校ではない。また、勉学は競い

  • 私の戦後70年・テレビ

     昭和35年以降、日本の家庭にはテレビが爆発的に普及、老いも若きもその魅力に取り憑かれた。とりわけカラーテレビが出現することによって日本人の「色彩感覚」は一変したと思う。私の父は、多くの子どもたちがその画面を食い入るように見つめている様子を見て「これで日本はダメになる」と呟いたが、事実、日本人の「想像力」は確実に衰退し、「百聞は一見に如かず」といった風潮が蔓延っている。「活字文化」(書物)から「音

  • 私の戦後70年・不良

     中学2年が終わる春休み、私はK君、H君と三人で、郊外・深大寺周辺の風景を写生しに行った。私以外は、油絵の具、イーゼル持参、本格的な装備だった。裏手の草原(今の神代植物園の辺り)で、楽しく絵を描き、弁当を食べ終わった頃であろうか、向こうの彼方に五、六人の人影が見えた。何気なく眺めていると、その人影がこちらに近づいて来る。たちまち私たちはその人影に取り囲まれた。中の一人が「何やっているんだ?、お前ら

  • 私の戦後70年・弁当

     中学に進学すると、昼食は弁当持参となった。裕福な家庭の生徒は魔法瓶にお茶を入れ、白米用の弁当箱の他に、卵焼き、鮭、ウインナーソーセージ、サラダなどの総菜用の弁当箱が加わった。リンゴ、ミカンなどのデザートを持参する者もいた。弁当が準備できない家庭の生徒は「パン券」を利用した。それに記名して指定の箱に入れておくと、袋に入ったパンを業者が届ける仕組みであった。私は「パン券」組だったが、時折、親類の女性

  • 私の戦後70年・音楽の授業

     中学校の音楽の授業は苦痛だった。先生は見るからに軍人上がりといった風貌で、雰囲気は厳格そのもの、課題曲の歌詞を長々と説明した後、ニコリともせずピアノを伴奏して生徒に歌わせる。集中力が薄れてざわつきでもしようものなら、たちまち「そこのお前、何をしているんだ!」という怒声がとんでくる。私は「音を楽しむ」どころか、緊張と苦痛の連続で、音楽の授業がある日は「不登校」気味になってしまったが、中でも歌唱のテ

  • 私の戦後70年・新聞配達

     小学校時代から仲良しのK君が中学2年で新聞配達を始めた。彼は得た賃金で文庫本「次郎物語」を読んでいる。その姿がたまらなく魅力的でうらやましかった。「自分もやりたい」と私は父に懇願し承認を得た。さっそくK君に頼み込み、繁華街周辺の「夕刊配達」を始めた。「読売新聞」に混じって「毎夕新聞」「サン写真ニュース」などという珍しい新聞もあり、届け先は居酒屋、バーなどの飲食店が多かった。時には、「おい小僧、朝

  • 私の戦後70年・体育大会

     小学校の運動会は中学では「体育大会」、徒競走は100メートル走と名称が変わった。陸上競技部員だった私は、当然100メートル走で1着にならなければならない。クラスメートはそうなるものと期待して、私のスタートに注目していた。しかし、結果は意外にも着外、「ナーンダ」という侮蔑の声があちこちで聞かれた。他の陸上競技部員は大活躍「おまえ、それでも陸上部か、この面汚し!」と叱られる他はなかった。以後、汚名返

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