• 私の戦後70年・新聞配達

     小学校時代から仲良しのK君が中学2年で新聞配達を始めた。彼は得た賃金で文庫本「次郎物語」を読んでいる。その姿がたまらなく魅力的でうらやましかった。「自分もやりたい」と私は父に懇願し承認を得た。さっそくK君に頼み込み、繁華街周辺の「夕刊配達」を始めた。「読売新聞」に混じって「毎夕新聞」「サン写真ニュース」などという珍しい新聞もあり、届け先は居酒屋、バーなどの飲食店が多かった。時には、「おい小僧、朝

  • 私の戦後70年・体育大会

     小学校の運動会は中学では「体育大会」、徒競走は100メートル走と名称が変わった。陸上競技部員だった私は、当然100メートル走で1着にならなければならない。クラスメートはそうなるものと期待して、私のスタートに注目していた。しかし、結果は意外にも着外、「ナーンダ」という侮蔑の声があちこちで聞かれた。他の陸上競技部員は大活躍「おまえ、それでも陸上部か、この面汚し!」と叱られる他はなかった。以後、汚名返

  • 私の戦後70年・陸上競技部

     中学1年生になり、私は陸上競技部に入部した。野球部、ハンドボール部などに比べて人気は薄く、新入部員は三人だけであった。初めての活動日、部長は私たち三人に向かって「まじめにやれよ、サボるなよ。」と言った。サボる?、練習するために入ったのだから覚悟はできている、と思ったが、いざ始まると先輩には着いていけなかった。全員がグランド1周を全速力で走り、次の1周はジョギング、次はまた全速力といったインターバ

  • 私の戦後70年・中学校入学式

     昭和32年4月、私は「学区外」の中学校に入学した。入学式は校庭で行われ、担任が新入生を一人一人、呼名する、呼ばれた生徒は「ハイ」と叫んで起立する。順番が回り、私も返事をして起立、不動の姿勢をとったが、その直後に「笑い声」が上がった。「コウタロウ」という名前が古めかしく、時代遅れだったからであろう。私は恥ずかしくて顔をあげられなかった。しかし、呼名は次々と進められる中、また「笑い声」が上がった。そ

  • 私の戦後70年・学区外通学

     昭和27年の大晦日に祖母を亡くし、父と私は文字通り「父子家庭」の生活を始めた。 申し込んでいた公団住宅が当たったので、これまでの間借生活は終了、他区に新築された鉄筋コンクリート4階建ての公団住宅に転居した。小学校3年生の時である。当然、転校しなければならないが、父は担任の先生に頼み込み、特別に「学区外通学」が許可された。通学時間は1時間に延長、バス通学を余儀なくされた。しかし「これまでの友だちと

  • 私の戦後70年・メガネ

     小学校入学時から私の視力は弱かったが、四年生の頃から黒板の字が見えなくなった。メガネをかけたいと思ったが、恥ずかしくて言い出すことができなかった。クラスの誰ひとりメガネを装用していない。学校の視力検査でも「見えない」ことを隠したい。私は順番がくるまでに検査表の文字列を必死で憶えた。「コ・ナ・ル・カ・ロ・フ・ニ・レ・コ・ヒ」。五年生までは何とかごまかせたが、六年生では叶わなかった。検査後、担任の先

  • 私の戦後70年・神宮球場

     小学校時代の男児の遊びといえば野球、焼け跡の原っぱで、時間を忘れて興じたものである。春・秋には、父に連れられて信濃町の神宮球場に通った。当時の東京六大学野球はプロ野球と肩を並べるほどの人気があった。外野席の芝生に座って観戦することが多かったが、私は極度の近視のため、ボールの行方を追うことができない。応援席のざわめきや選手のユニホームばかりを楽しんでいた。点が入ると学生席は総立ちになって「波の応援

  • 八月十五日

     夏休みなので、長野に住む小学4年生の孫がやってきた。彼は、保育園の時から空手を習い始め6年目になるが、これまで試合で勝ったことが一度もなかった。しかし、「継続は力なり」、最近の試合では3戦全勝で優勝したという。これまで負け続けていたのに「なぜ勝てたのか」、私は不思議でならなかった。そのことを孫に尋ねると「・・・ウーン、よくわからないけど、相手を憎らしいと思ったからかな」。なるほど、勝つためには憎

  • 私の戦後70年・学校給食

     戦後の小学生は、昭和33年頃まで給食で「脱脂粉乳」を飲まされた。喜んで飲む子どもは少なく、ほとんどが目をつむり鼻をつまんで一気に飲み干す。中には隠れて流しに捨てる子どももいた。当時の小学生は毎日、給食袋にアルミの皿、コップ、椀を入れて登校した。給食の献立は三品、コッペパン、ミルク、総菜だけであったからである。ミルクと称する「脱脂粉乳」以外は、美味しかった。コッペパンは半分にスライスされて、ジャム

  • 私の戦後70年・友だち

     小学校の一学級は50名を超えていた。いずれも敗戦の中で生まれた子どもたち、父が戦死した母子家庭4人、養父1人、父子家庭3人など戦禍の傷跡が残っていたが、時代は「新生日本」に向かって第一歩を踏み出す。その息吹の中で、大人も子どもも希望に満ち溢れていた。私たちの学年は6年間、編制替えがなかった。そのため友だち同士は家族のように親しくなった。お互いの長所、短所を熟知し、ケンカもしたが団結もした。今でも

  • 淡谷のり子・「歌に恋して85年」

     ユーチューブで「歌に恋して85年 淡谷のり子 生涯現役 女のブルース」というテレビ番組を観た。その中では、淡谷のり子が80歳を過ぎても「生涯現役」を貫いた舞台姿が紹介されていたが、収録曲は17曲、その内訳は以下の通りである。 ①60歳台:「別れのブルース」(昭和49年・67歳)、「雨のブルース」(昭和50年・68歳)、「夜のプラットホーム」(昭和50年・68歳)、「君忘れじのブルース」(昭和50

  • 「うたくらべ ちあきなおみ」の《魅力》

    インターネットのウィキペディアフリー百科事典・「ちあきなおみ」の記事に、以下の記述がある。〈1992年9月21日に夫の郷鍈治と死別した。郷が荼毘に付される時、柩にしがみつき「私も一緒に焼いて」と号泣したという。また、「故人の強い希望により、皆様にはお知らせせずに身内だけで鎮かに送らせて頂きました。主人の死を冷静に受け止めるにはまだ当分時間が必要かと思います。皆様には申し訳ございませんが、静かな時間

  • 落とし物

     北海道・富良野、美瑛のフラワーガーデンを満喫して帰路に就く日、北海道大学札幌キャンパスに立ち寄った。古河講堂、クラーク像、ポプラ並木、大野池を経て、札幌農学校第二農場へと向かう。「都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ)・・・夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて・・・人の世の 清き国ぞとあこがれぬ」と詠った往時の学生の息吹も蘇り、感動的な時間を過ごしていたが、電車の出発

  • 私の戦後70年・メエ婆

     私は母方の祖母をメエ婆と呼んでいた。メガネをかけていたからである。彼女は、戦前から「祖父に分家させられて」、娘一人とともに下宿屋を営んでいた。近くにある旧制高校の学生が多く利用したという。私の父もその一人、母は下宿屋の娘ということである。父は成人して満州に渡り、母もその後を追ったが、私を出産後まもなく病死した。私は娘の忘れ形見というわけで、メエ婆はことのほか私を溺愛したように思う。そのためか、私

  • 私の戦後70年・静岡浅間神社廿日会祭

     静岡市の浅間神社では恒例の廿日会祭が四月初旬に開催される。小学生の私は、毎年春休みになると、亡母の実家がある静岡の祖母宅に帰省して、そのお祭りを楽しんだ。満開の桜が散り始める神社の境内では、神楽舞台の他、大衆芸能の余興用舞台、オートバイサーカス、お化け屋敷、見世物小屋などが特設される。仲町から赤鳥居までの参道には露天商の屋台が「綺羅星のごとく」連なっている。私は、小銭をポケットに、それら一つ一つ

  • 私の戦後70年・「太郎花子国語の本」(教科書)

     小学校の国語教科書は「太郎花子国語の本」であった。一年から六年まで一貫して太郎、花子の兄妹が登場し、その生活が描かれる。今、私の手元には「おはよう」「あかいとりことり」「ゆうやけこやけ」(一年上中下))、「ひばりのうた」「青いお空」(二年上下)、「みどりの教室」(四年上)「田園のしらべ」(六年上)が残存している。「おはよう」の巻末には〈みなさんがこれからだんだんおおきくなるにつれて、たろうさんた

  • 私の戦後70年・蓄音機

     昭和26年、上京した父と祖母、私の三人は山の手の親類宅に「仮住まい」した。親類の家族は四人、合わせて七人が八畳、六畳、三畳、物置、台所の瀟洒な平屋住宅で雑居することになった。当時の娯楽はラジオ中心、一同は「のど自慢」「二十の扉」「とんち教室」「三つの歌」「今週の明星」等々の番組を楽しんだが、親類宅には年代物の手動蓄音機があった。ハンドルをぐるぐる手回しして、鉄の針をレコード盤にのせると、摩擦音に

  • 私の戦後70年・キャラメル

      昭和20年代後半、小学生男児の嗜好品はキャラメルであった。その魅力は何よりも強力な「甘味」だが、それ以上に箱の中のカードの一枚、一枚が射幸心を煽った。東京では「紅梅キャラメル」「カバヤキャラメル」が覇を競う。紅梅のカードは「ヒット」「二塁打」「ホームラン」などと記されており、集めて得点すると巨人軍選手の名鑑をゲットできる。さらに監督・水原、投手・大友、中尾、野手・川上、千葉、宇野、平井、与那嶺

  • 私の戦後70年・白いかげろう

     私が物心ついた昭和20年代半ばから30年代にかけて、白衣をまとい戦闘帽を被った   男たちが、都心の街角、祭礼の境内、電車の通路など「人混み」の中に出没した。彼らは、たいてい二人一組となって、一人がアコーディオンを奏で、他の一人が軍歌を唄う。「さらばラバウルよ また来るまでは・・・」その光景を目にすると、人々の表情は一様にこわばり、眼を伏せる。まだ小学生だった私でさえ、白衣からむき出た義手・義足

  • 私の戦後70年・遠足

     毎年、春・秋にある小学校の遠足は、その日一日勉強をしなくてよいというだけで、楽しかった。一年・井の頭公園、二年・向丘遊園地、豊島園、三年・ユネスコ村、浜離宮、四年・相模湖、江の島、五年・稲毛海岸、高尾山、六年・城ヶ島、箱根と重ねられた楽しい思い出がアルバムに残されている。しかし、一年・春の一枚だけが欠けている。その日は朝から雨模様で、遠足は「中止」という連絡が来た。私は定時にランドセルを背負って

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