• 「傳記文学 初雁」森銑三 講談社学術文庫

    森銑三は、図書館の司書を務めていました。博学多識の人で、特に日本の江戸時代を中心に、多くの優秀な文章を残しています。書中、鎖国の当時、遠く小笠原諸島の鳥島に漂着し、なんとしてでも、故国に帰りたいと祈願する人々の不屈の苦闘を描いた章などは、名篇です。著者は、なんの抵抗もなくその時代の中にスタスタと足を踏み入れることができる人で、著者の中で、実にはっきりと歴史が生かされているからなのでしょう。これは、

  • 「無罪」大岡昇平 新潮文庫

    古今にわたる世界中の冤罪事件を集めた短篇集です。時を隔てて出てきた証拠によって、無罪であることがはっきりと証明された数々の事件が、短編小説のように綴られていきます。著者は、別の著作の結びで、「事件というものが起きなければ、悲劇は生まれない。それが二十世紀である。」という有名な言葉を残しています。この書では、冤罪による事件によって、人間性の深部があぶり出されてくる様が手に取るように見えてきます。冤罪

  • 「紫文要領」本居宣長 岩波文庫

    「紫文」とは「源氏物語」のことです。この書は、宣長が紫式部は大略こういうことを言いたかったのだということを纏めたものです。有名な「もののあはれを知るこれ肝要なり」という文章が見えます。人生においては、「もののあはれを知る」ことが最も重要なことなのだと言うのです。宣長は、「もののあはれを知る」ことは本当にすべてのあはれを知り尽くすことができない理想と見ました。「源氏物語」は、およそあらゆる感情「あは

  • 「町人貴族」モリエール 岩波文庫

    頭の働きは悪く、無教養だが大金持ちの町人ジュールダンは、貴族になりたくてしようがありません。貴族の真似をして、じつにさまざまな習い事に手を出します。ついには、娘も貴族でなければ、嫁にやらないと言い出しますが、ジュールダンは、貴族のしたたかさに手もなくやられてしまいます。観客はその有り様に抱腹絶倒しますが、いつの間にか、この町人に人間的な共感が湧くのを禁じ得ません。哲学の講義の際、哲学が本質的に揶揄

  • 「タルチェフ」モリエール 岩波文庫

    タルチェフは偽善者の代名詞となった劇中人物です。敬虔な宗教家を装い、金満家のオルゴン氏を夢中にさせてしまいます。他の登場人物たちは、もうすでにタルチェフの正体は、ほとんど見抜いているのですが、オルゴン氏だけは宗教的な高揚さえ、タルチェフに感じています。タルチェフはオルゴン氏一人に対しては、思いのままです。本当の偽善者というものは、そういうものなのでしょう。オルゴン氏は、他の人たちの賢い忠告には、一

  • 「共産党宣言」マルクス・エンゲルス 岩波文庫

    マニフェストは俗に宣言、公約を意味しますが、旧来、「マニフェスト」とだけ言えば、この本を指しました。世界中の共産主義者の拠り所となった本です。有名な「世界のすべてのプロレタリアは団結せよ」という表明は、マルクスの個性的な発言というものではありません。読み進むうちに、われわれは何か行動を起こさなければならないという気持ちを否応なく抱かせる行動の書です。「資本論」はその理論的根拠となる作品です。歴史的

  • 「813」モーリス・ルブラン 新潮文庫

    ルパンシリーズの中でも最も力の入った良い作品でしょう。作者のルブランは、最初モーパッサンのような作家を目指していましたが、作者の頭の中に、自ら創造した怪盗ルパンのイメージがどうしようもなくこびりついて離れず、また、ルパンシリーズの小説が多大な評判をとったこともあって、怪盗ルパンを書き続けました。作中、ルパンが知らぬまに睡眠薬を飲まされて、朦朧とした意識の中で、緊急の謎解きに挑む箇所は推理小説の中で

  • 「バスカヴィル家の犬」コナン・ドイル 新潮文庫

    ドイルは本格的な歴史小説も書きましたが、シャーロック・ホームズの名があまりにも大きかったために、その小説はあまり注目されることはありませんでした。晩年には、神秘思想にも凝ったりしています。この作品は、ホームズシリーズの中でももっとも長い、またもっとも良い作品でしょう。小説全体を覆う一種独特の怪奇的な雰囲気は、他の推理小説では例を見ないほど、異様な緊張感がみなぎっています。

  • おすすめ本

    「あした死ぬかもよ」 ディスカバリー社。

  • 「高野聖」泉鏡花 岩波文庫

    鏡花のグロテスクな怪奇趣味が横溢した書物です。主人公の旅の男はある山の家で、美しい女人と出会います。その女人こそ魔界の主で、自分の色香に迷った男どもを次々と醜いけものに変えてしまいます。きよらかな心を持った主人公だけが、無事人間のまま山を下り、不思議だった経験を人々に語ります。鏡花の他の作品では、「夜叉ケ池」「外科室」「天守物語」などがおすすめです。

  • 「高瀬舟」森鴎外 新潮文庫

    江戸時代に取材した短編小説です。話の主題はたいへん重く、実の兄弟をやむを得ない事の成り行きからあやめてしまい、護送船に乗せられた男の話です。ここでも、やはり鴎外は自分の意見などを陳述していません。ただ、護送船の船頭にこの男は果たして、罪人と言えるのだろうかとお上に問うてみたいと思わせて、物語を終わります。筆者自身はまったく冷厳に沈黙したままです。読者はさまざまな想像や考えをかき立てられてやみません

  • 「阿部一族」森鴎外 新潮文庫

    鴎外の文章は剛直そのものです。まったく当たり前な文章法に従って書かれているにも関わらず、鴎外の強い個性と文章本来の持っている力強さがにじみ出てきます。この作品は、ある人物のひょんな通癖が巡りめぐって、一族もろともの滅亡にまで発展してしまうという皮肉な悲劇ですが、筆者は、ここになんの説明も加えていません。読む者が、この話をどうとろうが勝手次第だという苦み走った筆者の面構えが見えてくるようです。鴎外は

  • 「野火」大岡昇平 新潮文庫

    第二次世界大戦に取材した小説です。自身が一兵卒であった大岡は、復員兵となって日本に戻りますが、その戦争中、アメリカ軍の俘虜となります。その間の経緯については作者自身による別の大きな小説があります。この小説は、極限状態に置かれた人間の話です。作者と思しき兵士が、別の兵士からもらって食べた乾し肉は、人肉だったのかどうかと自問し煩悶し続けます。疑念は戦争が終結しても消えることはありません。戦争の悲惨さを

  • 「落第坊主の履歴書」遠藤周作 新潮文庫

    遠藤周作は大学に入る前に三浪しています。自分がいかに間抜けであったか、こと細かく書かれていますが、辛辣な苦味はありません。遠藤はここで若い人々に向け、学業が不調であっても、頭が悪くても決して落胆することはない、人生は長いのだから。元に、わたしという見本があるではないかと世話好きなカトリックの神父さんのように明るいユーモアをまじえて励ましてくれます。狐狸庵先生の面目が躍如としています。他に『考えすぎ

  • 「イエス巡礼」遠藤周作 新潮文庫

    新約聖書のシモンは、洗礼を受けてペテロと名乗りますが、三度キリストを裏切ります。鶏鳴三度の有名な話ですが、遠藤はそのキリストを裏切らざるをえなかった弱い普通の人間であるペテロを思い、その地を訪れ、そのイエスを裏切ったと伝えられている場所に立ち、なんとも言えない深い安らぎを覚えたと言います。日本のカトリック信仰の受容において第一人者であった著者の重要な思想を伝える一節です。

  • 「ボートの三人男」ジェローム・K・ジェローム 中公文庫

    イギリスのユーモア小説です。少しばかり読み辛い、丸谷才一による翻訳文ですが、イギリスならではの野性的なユーモアや皮肉が、随所に散りばめられたじつに愉快な本です。物語は、気鬱に塞いだ男が家庭医学書を読み耽り、自分はたった一つの病気を除いて、あらゆる病気に罹ってしまったと思い込む所から始まります。世にも暗い顔をして医者を訪れ、渡された処方箋には「気晴らしをせよ」と書かれていました。三人の抱腹絶倒の旅が

  • 「氷島の漁夫」ピエール・ロチ 岩波文庫

    豊かな色彩感覚に溢れた美しい小説です。自分が非常な美貌の持ち主であることに自分でも気がつかないような純粋な心情を持った女性と、寡黙だがたくましいアイスランドの美青年の漁夫との恋愛悲劇です。ロチは、さまざまな経緯をへて二人を結びつけますが、物語の最後で、美青年の漁夫をまるで海の女神が嫉妬したかのように、アイスランドの海へ飲み込ませます。可憐な乙女は半ば気が触れたように亡き夫のシャツにぬくもりを求めま

  • 「玉勝間」本居宣長 岩波文庫

    宣長が「古事記伝」を執筆する際、研究余録として書かれた随筆集です。内容は国学を中心として、諸事万般に渡るもので、宣長の興味教養や思考の幅がじつに広く、また深いものであったことを窺わせます。書中、尚古主義とは正反対の思考や弁証法的な論法をきれいに叙した文章などが見えます。また、孔子という人物はけっして傷付けずに、論語に文句を言っている箇所などは宣長の人物をあざやかに浮かび上がらせる秀抜な章です。徒然

  • 「銀河鉄道の夜」宮沢賢治 新潮文庫

    賢治は謎めいた詩人です。賢治の作品にはまぶしい光が散乱している感がありますが、その光がいったいどこから来ているのかまったくの謎です。また、初期の詩集「春と修羅」に見られるように、自我意識のにごりと格闘せざるを得なかった典型的な近代人であるにもかかわらず、どの近代人にも到達できなかった、いわば、底光りのするような透明感を持っています。これは「銀河鉄道の夜」の大きな特徴ですが、賢治がいったいどのような

  • 「作家の態度」福田恆存 中公文庫

    小林秀雄は福田恆存<つねあり>の人物を評して「良心を持った鳥のような人だ」と言っています。ボードレールは滅びゆく貴族階級を範にして自分の生き方にダンディズムを取り入れましたが、福田は日本人的な直感で、これからの時代は俗物的な視点が欠かせないとスノッビズムを創作態度の中に取り入れました。この書は、近代日本文学の問題点を独自の視点から掘り下げたものですが、独創的な卓見に満ち、未だにこれを越える批評は出

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