のどかだった30年前の中朝国境とノスタルジーあふれる旧大和ホテル
1992年の中国旅行では、北京の観光をした後、夜行列車で瀋陽(昔の奉天)に向かいました。1等寝台(軟臥)のチケットは前日でも手配できました。 瀋陽では、中山広場にある遼寧賓館に泊まりました。ここは、戦前満鉄が経営していた大和ホテルだったところです。今では瀋陽には快適な外資系ホテルが増え、遼寧賓館は中... 続きをみる
のどかだった30年前の中朝国境とノスタルジーあふれる旧大和ホテル
1992年の中国旅行では、北京の観光をした後、夜行列車で瀋陽(昔の奉天)に向かいました。1等寝台(軟臥)のチケットは前日でも手配できました。 瀋陽では、中山広場にある遼寧賓館に泊まりました。ここは、戦前満鉄が経営していた大和ホテルだったところです。今では瀋陽には快適な外資系ホテルが増え、遼寧賓館は中... 続きをみる
列車の切符が買えず町から出られない:しくじり先生の海外旅行(第10話)
中国といえば、広大な国土にもかかわらず鉄道網が発達している国として知られています。今日では日本やドイツの技術を使った(盗んだ?)高速鉄道網も充実し、IT技術の発達によりオンラインでの予約・発券もできるようになっています。しかし、昔は乗り心地が悪いうえに、オンライン発券ができず、列車のチケットを手配・... 続きをみる
中国の近代史には、非常に混沌としていた時期がありました。中国は、外は列強、内は軍閥が領土を奪い、中国全土に勢力圏を分けると言う 内憂外患の真っ只中であった。1930年代初頭、最も強力な軍閥の一つが張作霖であった。 最盛期には南京国民政府の直轄部隊よりも強く、陸海空で30万人以上の兵力を有していた。当... 続きをみる
趙一荻の一生は88歳で、愛する少帥(張学良)のために、11歳の年齢差も顧みず、正式な肩書きもなく、父親の軟禁や、族譜(ぞくふ)への登録削除も恐れず、それでも張学良から離れも捨てもせず一生涯を守ること70年の長さで、本当にハンガリーの大詩人ぺテーフィ・シャーンドルの有名な詩歌『自由と愛』で言うところの... 続きをみる
1903年、『中国・米国通商船更新条約』に基づき、丹東は、日本、米国、英国、その他の国が丹東に領事館を設立した。丹東海関も1907年3月に鴨緑江の辺りで中国の関税主権を行使(こうし)した。丹東が開港すると、山東省及び中国北部から大量の移民が流入し、公衆衛生問題も顕在化し始めました。この論文は、中国東... 続きをみる
伍連徳、字は星聯、祖籍は広東新寧、流行病の専門家で、微生物学と病理学家、中国の検疫と防疫事業の先駆者かある。20世紀初頭に、彼は中国の現代医学の建設と医学教育をし、公共衛生と伝染病学に先駆的な貢献を作り出した。前後して検疫所、病院、研究機構20カ所の開設を主催し、中華医学会の建立と『中華医学雑誌』の... 続きをみる
満州のペストは1910年10月末から1911年4月中旬に発生し、範囲は66の府庁州県に及び、病死者46,747人で、中国の歴史最大で最初のペストであった。それはマーモットの捕獲者に始まり、その人は病状が潜伏期間に中国人労働者と接触し、1910年9月中旬に7人の突然死を出した。感染した中国人労働者が故... 続きをみる
瀋陽関東軍司令部 瀋陽関東軍司令部の旧跡は瀋陽市和平区中山路101号甲。この建築は1922年に落成した。日本人の設計により、正面は三段の対称式の構造で、三段階で、フランス古典主義の風格にのっとる。メインの入り口の上方には四組のコリント式の双中の装飾であり、優美で上品である。楼内の床面の腰羽目と、戸窓... 続きをみる
80年前、日本人は奉天地下鉄を建設することを計画していました。1940年、日本人は満州国奉天市の「奉天都市地下鉄」計画を計画しました。委託設計は大阪市電気局(終戦後は大阪市交通局を改組、2018年前は大阪地下鉄の運営会社)です。当時、日本の東京地下鉄と大阪の地下鉄しかあります、東京地下鉄は私営、大阪... 続きをみる