琉球と日本の違いのムラゴンブログ

  • 琉球、皇帝の衣装を無断で作り叱られる

    織金竜衣(しょっきん・りゅうい)というのは、 中国皇帝だけが、着用を許された黄色が主体の衣で、 模様として竜がびっしりと描かれていました。 黄色も竜も皇帝のシンボルなので、 琉球も大層そのデザインに憧れていました。 1471年、使節としてやってきた蔡璟(さいけい)は、 こっそり、針工と織金竜衣の生地を手に入れ、 琉球館で、織金竜衣を二着造らせます。 ところが、これがバレてしまい、 蔡璟は、咄嗟に、

  • 琉球処分前後、小学校は恐怖の場所だった。

    琉球国の時代、教育は士族の子弟、 そして男子だけに限られていました。 上流階級の王妃ですら文盲という事が 珍しくなかったのです。 琉球処分後、明治政府は教育の拡充を 掲げて、小・中学校を造りましたが 琉球処分から9年経っても、就学率は 全国平均の47%に過ぎませんでした。 この理由は、これまで琉球国に 庶民の為の初等教育機関がなかった為 教育への理解が無かった。 そして、子供も大事な労働力で 学校

  • 琉球最古の画家 自了

    琉球の歴史に残る最古の画家の名前は、 城間清豊(ぐすくま・せいほう) と言う人で、号を自了(じりょう)と言います。 1614年に産まれた彼ですが、 生まれつき、耳が聞えず、 しゃべる事も出来ない という障害を持って産まれました。 両親は清豊の将来を悲観して、 彼には学問を教えませんでした。 ところが、清豊自身は、 そんなハンディはお構いなしの 好奇心旺盛な少年に育ちます。 清豊はある時、 どうして

  • ネトウヨに似てる?末広鉄腸

    ネットで「琉球」と入れて検索すると 出てくる琉球への罵詈雑言の数々 特に基地問題と沖縄のアイデンティティ問題に 関しての書き込みは日本の言い分を押しつけ 反論に対しては、スパイ・工作員と レッテル貼りをする独善の一言です。 そのような琉球ディスなネトウヨにも、 遥か昔に元祖と呼べる人物がいました。 それが朝野新聞の 末広鉄腸(1849~1896)です。 末広鉄腸は藩閥政府を激しく攻撃する 自由民権

  • 日本史上初の勲章には琉球の文字が、その理由とは?

    日本の歴史上、 最初の勲章には、 琉球の名前が入っていた というのをご存じですか? その名も、薩摩琉球国勲章といい、 1867年のパリ万博で登場しました。 当時は、徳川幕府と薩摩藩、そして佐賀藩が、 万博に自分達のブースを持っていましたが、 特に倒幕を考えている薩摩は、 幕府と薩摩藩には、 主従関係はない、 独立した国同士である という印象を諸外国に 与えたいという意図がありました。 そこで登場し

  • 平敷屋朝敏はどこが凄いの?後編

    平敷屋朝敏は、女性問題で 首里を追放され、一時期、 地頭をしていた平敷屋村に引っ込んでいます。 しかし、ここで貧しい百姓の暮らしぶりを見た 朝敏の作風に大きな変化が起きます。 美しい絵空事の悲恋ではなく、 歴史に題材を取り 本当にあった悲恋を掘り起こし ままならない世の中に 理不尽に引き裂かれる 男女の物語を書いていくのです。 「どうして世の中には、搾取されて苦しむ人間と それに胡坐をかいている人

  • 日本は琉球のおまけだった?

    世界史の授業では必ず習う 冒険家バスコ・ダ・ガマ ヨーロッパ人として初めてアフリカの南端の 喜望峰を回った人物ですが、実はヨーロッパ人では 初めて、琉球の事を知った人でもあります。 1498年にインドに到着したガマは、 ガイドのアラビア商人から、レケオという 大国があるという噂を聴きます。 もちろん、これはレキオ、琉球の事です。 それによれば、 レケオは豊かな国で、 刀、剣、香辛料、黄金や、鉄、

  • 魔夜峰央的・・?美少年大好き琉球

    琉球においては、美少年は最強でした。 国王の側近を務めた美少年集団、 小赤頭(こあくかべ)も、 高級士族の子弟から選抜され、 諸芸に秀でてかつ容姿端麗 であるという事が条件でした。 その姿は男でも女でもない 中性的なユニセックスな 衣装を着て 首里城で行儀見習いをしています。 江戸時代には、この小赤頭から、 選抜された楽童子が日本中で 黄色い声援を浴びています。 小赤頭の出身者には、 三線の湛水流

  • 琉球料理と日本料理、アメリカ人が好んだのは?

    1853年、日本に向かう前に 琉球にやってきたペリー 恫喝外交に苦しみながらも、 そこはお客様、無下には出来ません。 琉球は中国使節に与えるよりはワンランク低い 豪華な料理で、おもてなししました。 「実は君達を歓迎してないぜ、フフン」 というサインを紛れこませたのですが、 そんなサインはアメリカ人に分かる筈もありません。 料理として出てきたのは、 伊勢海老や鹿肉、豚肉、 卵、家鴨、小麦粉を使った

  • 帝国主義だった琉球

    佐敷王統は、国内統一で余った エネルギーを更に北へと向けます。 そのターゲットになったのは、 奄美大島や喜界島であり、 そこには、島津氏の代官である 千竈(ちかま)氏がいました。 1450年代には、琉球は 奄美大島を千竈氏と 奪いあっていたようで 尚巴志の息子である 尚布里(しょう・ふり)が 奄美大島の攻防戦で 激戦の末に千竈氏を 辛うじて退けたという記録があります。 当時の琉球の国境線北限は 臥

  • 尚巴志の艦隊 北山の度肝を抜く

    1406年に中山王、 武寧を討った尚巴志は、 父を中山王に立てます。 これが佐敷王統の始まりになります。 尚巴志は皇太子の身分で従わない 中山の按司を征伐しつつ、那覇港を拡張して 首里城を増築していきます。 1416年、国力の充実を 実感した尚巴志は 北山を攻め滅ぼす勅を下します。 時の北山王は、 攀安知(はんあんち)といい 武勇と知略に優れた名将でした。 狩猟民が多い北山兵は勇猛であり、 人口は

  • 首里城に埋蔵金が存在した!!

    琉球は二年に一度、 中国に進貢船を送っていましたが、 ※接貢船というお迎えの船も 出したので事実上は毎年 これには莫大なお金が掛かりました。 進貢というのは、中国皇帝へ忠義を示す オフィシャルなものなので 「すみません、今年は お金ないので伸ばして下さーい」 というような言い分が一切通りません。 そこで、琉球は表の経済とは 別にへそくり、いわば埋蔵金を 持つようになりました。 伊江親方日々記という

  • 琉球は差別語ではない

    最近は琉球という言葉は 中国から付けられた屈辱的な 名前だから使うのは良くないという 根拠のない話があります。 しかし、それは悪意のある曲解であり、 そもそも琉球という名前には 悪い意味はありません。 南海に浮かぶつるつるした宝玉 というのが琉球の意味です。 中国は大抵、周辺国には蔑視した名前をつけますが 琉球は例外的に美名でした。 ちなみに、日本に中国がつけた「倭」とは、 短足野郎、小人という意

  • 琉球が中国に500年送り続けたものとは?

    琉球は、1372年から、 琉球処分までの500年 毎年、せっせと中国に 送り続けたものがありました。 それは何と硫黄です。 硫黄は沖縄本島からは採れませんが、 近くに硫黄鳥島という島があり、 そこから何百年も採掘しました。 さて、どうして硫黄が輸出品だったのか? それは、これが 火薬の原料だったからです。 中国は、絶えず内乱か異民族の侵入に 悩まされている国であり、 特に騎馬民族である 遊牧民の撃

  • 佐敷王統はどうして滅んだのか?

    佐敷王統は、一代の風雲児、尚巴志が築きあげ そして、60年あまりで滅んだ王朝です。 1406~1469年ですから63年の命です。 では、佐敷王統はどうして滅んだのかを 簡単に説明していきます。 ①王様が変わるのが頻繁すぎた。 尚巴志の後を継いだ王達が短期間で次々に 亡くなりました。 これでは、権力が弱まるのは当然です。 ②身内で王位争いを始めた 王位継承順位を巡って、叔父と甥が争いました。 双方が

  • 琉球、日本は感じ悪いと思う

    琉球の船は1404年からは、日本に来ていて、 最初は鎌倉を目指して、相模湾辺りに来ていました。 その後、どうやら幕府は京都に移ったらしいと知り、 京都から近い堺に船を停泊するようになります。 特に、室町幕府8代将軍、足利義政の時代には 琉球は17年の間に6回というハイペースで来ています。 ところが、琉球使節の扱いとなると、室町幕府は 完全な属国の扱いをしていました。 『斎藤親基日記』『蔭凉軒日録』

  • 琉球に流されたチンギスハーンの子孫

    13世紀にユーラシア大陸全域にまたがる 大帝国を築いたモンゴルの英雄チンギスハーン そんな彼の子孫が琉球に流されていました。 明朝の正式な記録である明実録によると 西暦1388年  元の王子、地保奴(チボヌ) を琉球に配流したとあります。 元帝国は、1368年に朱元璋率いる 明軍に敗れて北京を放棄して北に逃げました。 地保奴は、その際に逃げ遅れたと思われます。 流された地保奴のその後は、 何の記録

  • 豚を中心に回る琉球エコロジー

    琉球の庶民にとっての財産は、 何と言っても豚でした。 豚は暑い琉球の貴重なタンパク源であり 疲労回復のビタミンBも豊富に含まれます。 それに冠婚葬祭、全てにおいて 豚肉料理は出るので、どんな貧困世帯でも 豚は飼わなければいけなかったのです。 そんな豚は庶民の家でフールとよばれる 石造りの立派な畜舎で飼われていました。 フールは豚小屋兼トイレでもあり、 糞尿も豚の餌になっていたのです。 つまり、フー

  • 北京で情報収集をする琉球

    西暦1644年、 李自成の反乱で明は崩壊し、 山海関を越えた満州族が 反乱軍を撃ち破り清を建国します。 この清は中国史上、最も巨大な領土を持っていました。 また、日本と同じように清は鎖国をしてはいましたが、 それは外国人が国の中を 自由に出入り出来ないという意味です。 清は杭州に限って交易用に 西洋列強に土地を貸与していました。 長崎の出島の巨大バージョンですね。 ここには17国の西洋の商館があり

  • 進貢船が中国に到着するまでの期間

    琉球から出た船が中国の福州に入るまでには どの程度の期間が掛かったのでしょうか? それは、最短で4日間と言われています。 意外に速いですよね? ただ、これは順調に行った場合で、 長期になると30日という事もありました。 これは航海しているというより 久米島で良い風を待っていたからです。 どうして久米島で風を待つのか? これには、久米島が福州までの最短距離である という大きな理由がありました。 そし

  • 冊封使が見た琉球のびっくり冠婚葬祭

    冠婚葬祭や、接待では上座、下座、 その他色々のしきたりがあります。 沖縄の人は、そういうしきたりが、 ことのほか、苦手ですが、 それには理由があったのです。 そう、琉球には元々、上座や下座の概念がなく、 そのようなしきたりを知っている人は殆どいませんでした。 17世紀の後半に琉球に来た冊封使の張学礼は、 当時の琉球の宴会の様子を書き残しています。 客が尋ねてくると、上下東西の別なく意のままに座る。

  • 琉球のグスクと日本の城の決定的な違い

    日本の城と琉球のグスクは、 一見石垣に周囲を囲まれていて同じに見えるが、 実は、その内部において、大きな違いがある。 琉球のグスクは、大小問わずその内部に 聖域を抱え、御イベという御神体の石が必ずあるが 日本の城には、そのようなものはないのである。 それは、グスクが発生した頃、そこが本来は 防御拠点ではなかったという事を示唆している。

  • 伊是名王統の王様って何名?

    伊是名王統は、尚円金丸を初代とする王朝で 佐敷王統の尚徳王の死後にクーデターを起こして樹立され 1470年から、1879年まで409年続きました。 ほぼ、日本の戦国時代と江戸時代を合わせた長さがあります。 その王様の数は19名にも上ります。 徳川幕府でさえ、263年で15代に過ぎません。 中国では長いと言われる漢王朝だって400年ですが、 一度、クーデターで倒れて、再興されての400年です。 もち

  • 琉球士族のステータス 家譜 家系図

    家譜(かふ)系図(けいず)は、それぞれ異なるものです。 家譜は、先祖の履歴書、系図は先祖から今までの血統になります。 平たく言うと系図は家系図です。 琉球の場合、家譜も系図も、1609年の 薩摩侵略以後にもたらされます。 それまでは、誰々の先祖が誰という事に 琉球人は関心が無かったのです。 1689年、王府の中に系図座が置かれて、 士族に系図と家譜の提出が義務付けられると この系図の有無が士族と平

  • 国王からの白紙委任状  空道

    空道(こうどう)とは、国王の印だけを押した白紙の公文書で、 中国に渡る使節は、これを何枚も持っていきました。 どうして、こんなものが要るのかというと、 政変が多い中国では、琉球で書いた公文書が無意味になる 可能性が高かったからです。 国王は、使者にフリーハンドを与え、 その時点で最適な公文書を書くように命令していました。 また、文字については、 誰もが、同じ字を書けるように 徹底して教えていました

  • ☆李氏朝鮮と琉球の繋がり

    歴史認識を巡り、ギクシャクしている韓国と日本ですが、 琉球と朝鮮には、日本とは違った繋がりがありました。  西暦1592年、8月、秀吉が朝鮮出兵の軍を起した頃、  朝鮮半島と中国の国境沿いにある平安道の義州で  驚くべき風聞が出回りました。  「秀吉軍の混乱に乗じて、琉球人が  秀吉を暗殺したこれで戦争は終わりだ」  実際には、これはデマであり 当の秀吉は大阪城でピンピンしていましたが、  これは

  • 琉球と室町幕府は対等であった。

    これまでの歴史では、大和政権は、琉球を直接支配してはいないものの、  名目上の臣下として扱っていたと言われてきました。 ですが、その研究自体が、沖縄が日本に併合された後に 行われたもので、沖縄=日本という先入観に支配されたものでした。   実際には、下の足利将軍から送られた文を見ると、 内国と琉球宛ての 文体に大きな違いがある事が分かります。  上の琉球国宛ての書状は漢字が少なく 年号が記載されて

  • ☆大名を潰す大和、親戚にする琉球

    尚真王は、琉球各地に散らばっていた按司を  首里に集めて、中央集権体制を強化します。 王は、配下の按司達に多額の給与を与え  領地に戻る気がしなくなるように 仕向けるばかりではなく、 お互いが反目しないように、 首里を3つの平等(ふぃら)に分けて、  それぞれ、南山、北山、中山の按司を 纏めて配置しました。  それぞれの平等には 御嶽も設置され、 わざわざ 地元に帰らなくてもいいように しています

  • ☆日本と重ならない部分が多い沖縄の歴史年表

    このように沖縄の歴史は、日本の影響を受けていない部分が多く、 日本史の地方史で教えると、混乱する事が多いのです。

  • ☆琉球の黒船はおフランスからやってきたザンス!!

    日本史でいう黒船とは、一般にペリー艦隊の事を意味します。 しかし、琉球史における黒船はペリーではないのです。  西暦1844年、フランス艦隊のデュ・プラン提督率いる 軍艦アルクメーヌ号が 那覇港に入りました。 それまでの友好を深めるという理由ではなく、  通商やキリスト教の布教を求めてきたのです。  アルクメーヌ号は、全長80メートル、 大砲を30門、武装した乗組員203名を備えた  後にペリーが

  • 琉球王と藩主はどう違うのか?

    琉球王は、薩摩や幕府から 任命されてなるものではありません。 その任命者はキミテヅリの神であり 即位式を経て王になります。 それは、琉球が独自の王権であった 証明であり、 天皇によって、支配権を与えられた 徳川幕府や、幕府に統治権を 認められた薩摩や他藩とは存在が 大きく違うのです。 にほんブログ村