名無しの拙作 第3作目 第12話:別れと約束
「僕たちも結婚を考えているんです。お二人のような夫婦を目指そうと、この取材を通して話していました」 山下がそう告げると、女将は目を丸くし、次の瞬間には満面の笑みになった。 「本当に? 嬉しい! おめでとう! 絶対に結婚式に呼んでね!」 「ぜひ来てください! 仲人もお願いしたいです!」 水島も続け、山... 続きをみる
「僕たちも結婚を考えているんです。お二人のような夫婦を目指そうと、この取材を通して話していました」 山下がそう告げると、女将は目を丸くし、次の瞬間には満面の笑みになった。 「本当に? 嬉しい! おめでとう! 絶対に結婚式に呼んでね!」 「ぜひ来てください! 仲人もお願いしたいです!」 水島も続け、山... 続きをみる
翌日、洗い場のオバサンが体調を戻して復帰し、「すみませんでした」と女将に頭を下げた。 その頃、山下と水島はいつもより早く店に入り、店内のあちこちにカメラを取り付けていた。 「そんな所にも付けるの?」と女将が驚く。 「はい、いろんな角度から撮りたくて」と山下。 「顔出しはダメよ」と女将が釘を刺すと、水... 続きをみる
女将は微笑んで言った。 「遅くなっちゃうから、この辺でね」 「本当に色々ご経験されたんですね」 山下がしみじみとつぶやく。 水島も静かに頷いた。 「オヤジさんが傷つくのも無理ないです」 女将は少し寂しげに目を伏せた。 「主人はお客さんには精一杯サービスするから、家計はいつもギリギリなの。でも、この店... 続きをみる
店主が声をかける。 「俺は上がるから、好きな物を飲んで話して。お疲れさん!」 そう言い残し、住まいの二階へと上がっていった。 暫くして水島が女将に尋ねた。 「どうしてオヤジさんはあんなに人が嫌いなんですか?」 女将は少し考え、「話せば長くなるけど、いいかな?」と前置きした。 二人が静かに頷くと、女将... 続きをみる
店主は二人に向かって念を押した。 「取材はいいが、店の外観や名前、住所や電話番号は絶対に出さないでくれよ!」 山下は少し考え、静かにうなずいた。 「確かに、こんなに繁盛しているのに、テレビで全国放送したら大変なことになりますよね。分かりました」 店主は満足そうに微笑む。 「それが分かってくれるならい... 続きをみる
「トリッパができたから、山下、持って行ってくれ!」 店主の声が飛ぶ。 山下は長ネギを食べていたが、「はい」と返事をし、口をモグモグさせたまま三番テーブルへ運んでいった。 戻るとすぐに報告する。 「三番テーブル、ミノとセンマイ一皿ずつ追加です!」 「はいよ!」 店主は手際よく調理に取りかかる。 続いて... 続きをみる
女将は声を荒げた。 「アンタさあ! 手伝いに来ている人に仕事させて、自分は休憩かい?」 店主はどこ吹く風といった様子で椅子にどかんと腰を下ろし、 「嫌なら帰ればいいだろ。俺が頼んでやらしているわけじゃねえんだからよ」 と冷たく言い放った。 その態度に女将は堪えきれず、怒りをぶつけた。 「アンタ、いっ... 続きをみる
「オヤジさん、お手伝いさせていただきたいです……」 水島は、心配そうに、しかしどこか甘えるような声で言った。 店主は少し驚いたように目を細め、優しい声で返した。 「美夏ちゃんで、できるかな!?」 「何でもおっしゃってください。できないことはオヤジさんに教わりますから」 そのやり取りに、女将と山下は思... 続きをみる
翌朝。 山下と水島は開店前の店の前で待機していた。 ICレコーダーを忍ばせ、会話を記録して上司に報告する計画まで立てている。 二人の表情には、昨日の疲れよりも、今日への決意が濃く浮かんでいた。 やがて、女将が掃除道具を手に店から出てきた。 その瞬間、二人は駆け寄った。 「女将さん、おはようございます... 続きをみる
上司にネットで見つけた店の写真を見せると、「ここなら面白い取材ができそうだな。取材交渉をして絶対にOKを取って来い!」と強い口調で指示が飛んだ。 しかし店主に断られた二人は、これ以上刺激しても逆効果だと判断し、いったん店を離れて、夕方の営業時間に客として訪れる作戦に切り替えた。 夕方の十七時。 一番... 続きをみる
「こんにちは! 東京の関東ローカルテレビの者です。『汚くても安くて美味い店!』というテーマで取材しておりまして、少しお話を伺わせていただけますか?」 焼肉食堂の昼休み。 女将が暖簾を下ろそうとした静かな店内に、二人の新人テレビ制作スタッフが姿を現した。 彼らは緊張した面持ちで店主の前に立ち、名刺を差... 続きをみる
汚くても安くて美味い店を探せ!――血縁ではなく『心』で結ばれた家族の物語 (登場人物) 焼肉屋の店主 オヤジ 60歳 焼肉屋の女将 58歳 ディレクター 山下道夫 30歳 アシスタントディレクター 水島美夏 25歳 (あらすじ) 東京のテレビ制作会社に勤める山下と水島は、「汚くても安くて美味い店」を... 続きをみる
「龍! 龍児ーー!」と綾香は祖母に聞こえない小さな声で呼んだ。 キョロキョロしながら名前を呼ぶ。 「なに?」と龍児。 呼ばれた龍児は、塀の向こうからピョンと姿を表した。綾香はビクッと飛び上がって驚いた。 「うわぁっ!」と綾香は驚いた。 「自分から呼んどいて驚くなよ」と龍児。 「名前呼んだら必ず聞こえ... 続きをみる
八月の最後の週が始まろうとしていた。 今朝は祖母が部屋の大掃除をしていた。押し入れの中やタンスの中を寝室の畳の上に出していた。 綾香は部屋の外から祖母に尋ねた。 「何をしているの?」 「いらねもん、ちょこっと片づけでっから、手ぇ貸してけれ〜」 「――断捨離?」 綾香も畳に座って、選別作業に入った。タ... 続きをみる
気がつくと、綾香は布団の中にいた。バサッと体を起こすと、目覚まし時計が四時を示しているのが目に入った。 たしか、綾香は龍児に案内してもらって、妖怪(あやかし)の隠れ里に行ったと記憶している。いつの間に帰ってきたんだろう? 徐々に意識がハッキリしてきた。そもそも妖怪(あやかし)の隠れ里なんか本当にあっ... 続きをみる
龍児が綾香に歩み寄った。 「じゃ、帰ろうか」と龍児が手を差し出してきた。 しかし綾香は拒み、「大丈夫、一人で帰れるから」と目に涙を浮かべて言った。 「帰れないだろうよ」と龍児は首を傾げながらも、長老が余計な事を言った事に怒っていた。 綾香は頭を振りながら「大丈夫だって!」 「何でそんな事を言うんだよ... 続きをみる
綾香は固まる体を曲げて、震えながら頭を下げながら、「はじめまして、雲母坂 綾香(きららざか あやか)です」 「会いたかったぞ、綾香殿!」と、元気なお爺さんの声が返ってきた。 顔を上げると、黒い妖怪(あやかし)が赤い瞳を細めていた。 「突然お呼び立てして驚かせたようだな。わしが、君に会いたいと呼んでお... 続きをみる
「あぁ、ごめん。置いていくとこだったよ。お土産なんかいいって言ったじゃん」と龍児が振り向いて、立ち止まって綾香を待った。 「こんなところに置き去りにされたら困るよ。それよりもこの紙袋を持ってよ。レディーファーストって言葉を知らないの?」と綾香。 笑いながら龍児に歩み寄って、ふいに足を滑らせる。 「ひ... 続きをみる
もう一度、台所にいた祖母に出かけてくると一声かけて、玄関の引き戸をガラガラと開けた。外で待つ龍児が、早速歩き出す。綾香は早歩きで追いかけた。 畑の間を突き抜けている砂利道を進む。今日も外はカンカン照りだ。 「長老って言ったボスが妖怪(あやかし)の『龍』って言うんじゃないの?」と綾香。 神社で読んだ、... 続きをみる
「綾香はさ、妖怪(あやかし)坂の先が気になっているんだよな?」 縁側で宿題の漢字のドリルをしていた綾香に龍児が言った。 八月も中旬以降に差し掛かった、とある晴れた昼下がりだった。 「そんな所にいないでこっち来たら?」 塀の上で座っていた龍児は、綾香の言葉を聞いて庭に降りてきた。 「気になるなら、妖怪... 続きをみる
それを渡して縁側に出戻ると、ぎょっとした。中からは障子で丁度見えなかったが庭に龍児がいた。 「あれ? まだいたんだ!」 「なんかいい匂いがしたから、もう一回遊びにきたんだよ」 「もう、庭からじゃなくて玄関から入ってきてよ」 綾香たちの会話が聞こえたのか、背後で戸が開いた。母親がこちらを覗き込んでいた... 続きをみる
人間から怖がられている、その事実を受け止めるために、見たくないものにも向き合う。そういうことだろうかと綾香は思った。 そして逆に綾香たち人間は、妖怪(あやかし)に対して真摯に向き合えているのだろうか。妖怪(あやかし)は綾香たち人間を、どう見ているんだろうか。村の人間が、妖怪(あやかし)を異形の者とし... 続きをみる
綾香の横では、龍児がマジマジと真剣な顔になって本と睨めっこしていた。もしかして何か重要な資料を見つけたのかもと、綾香はドキドキしながら声を掛けた。 「龍、美奈ちゃんのこと、分かりそう?」と綾香。 「いいや」と龍児。 「そうだ、龍は特殊能力が有ったんだよね?」と綾香。 「えっ、そうなの?」と美奈子。 ... 続きをみる
「この前、絶対に死んでいるよと言って、切り捨ててごめんネ!」と綾香。 「うん、そんな事、気にするなよ。生まれ変わりの姉貴に逢えたんだし、溺れているのまで助けられたんだからさ」と笑顔で応えた龍児。 トウモロコシの粒が、口の周りに張り付いていたので、綾香は「子供みたい」と笑いながら取って上げた。 「美奈... 続きをみる
祖母は、毎朝仏壇に手を合わせる。宗教の仏さんにも手を合わせ、暫くはお経を唱える。綾香も隣で手を合わせるけれど、足が痺れて、暫くすると横座りをする。遺影のお祖父ちゃんの事は良く知らない。どうやら小さい頃に一緒に遊んだことがあるらしいが、最後に顔を見たのはお祖父ちゃんのお葬式で綾香はまだ五歳だったので殆... 続きをみる
龍児は麗と、綾香に内緒で逢ったのが二週間、毎日続いた。その後は、彼が彼女を強く抱き締めたまま、耳元で「きれいだよ」「素敵だよ」「大好きだよ」と囁くと、彼女は、(このままどうなってもいい)と思えるほど幸せな気持ちになっていた。 八月の半ばに関東にある本家に行く事になった。麗としては、家で留守番して龍児... 続きをみる
龍児がこう言った時は、真剣に『もうちょっと一緒にいて!』と思い、麗の泣きそうな表情がおかしかったのか、龍児は彼女の深層心理まで見抜けてしまう魔術を持っていたので、ニコッと微笑むと麗の肩に手を置き笑顔が近付いた。 (えっ…?)と心の中で叫んだ麗だった。 麗にとってはファーストキスで、心の準備が出来てな... 続きをみる
龍児は自身を名乗り麗よりも若くて小五で、東京に住んでいて、この夏休みを利用して母方の祖父母の家に遊びに来ていると説明した。 「この寺子屋、良く来るの?」と麗。 「あ、うん。だいたい毎日ね」 と龍児。 「じゃあ、また逢えるかもしれないね?」と麗。 龍児の優しい笑顔に、麗は思わず真っ赤になった。麗は帰宅... 続きをみる
麗(うらら)は小さい時から大人しいというか、地味で暗い子だった。 男子にモテない癖に自意識過剰なのか、男子に話し掛けられると身構えるタイプだった。 お友達に彼氏ができたとか、初体験を済ませたとか聞くと、内心は羨ましいと思いながら、 自分には縁のない世界と思っていた。 小六の夏休み。 麗は田舎のこの村... 続きをみる
「なんだ、綾ちゃんの家と私の家は本当に近くだったんだね。五反田ボウルを左手に見て、その右側の目黒川沿いを歩いて行くと突き当りに東洋現像所があって、その横に目黒川を渡る橋があるの。相変わらず汚い川だけどね。その橋を渡ってT字路にぶつかった家が私の家で、お父さんは京浜ベーカリーっていうレストランに勤めて... 続きをみる
「いずれにしてもお礼をしないといけないので、どうしたら良いかと……」と少女。 「お礼してもらいたかったら、あの場にいたのに、そんなことしてもらいたいと思ってねぇがら、いなくなったんだべ。だから気にしねくてもいいんでねぇが?」と綾香は慌てて言った。 「それはそうよね。まだウツツガワ商店で会ったら、アイ... 続きをみる
綾香は母に電話をして、氷川神社の大鳥居を潜って右側に雷が落ちて屋根に大きな穴が空いていた家があった事を聞くと、母は「あったよ」と答えた。 (龍児が言っていた事は本当だったんだ)と思い、縁側に出て龍児を呼ぶと、「何、綾香?」と塀の上に座って相変わらず足をブラブラさせて笑顔で言った。 「ママに電話して訊... 続きをみる
「 『龍』さんと書いてあったのは、龍児のご先祖さんかな?」 「それはどうだか分からないよ。聞いた事はないし、元々俺は人間だったみたいだからさ」 「そっか、そう言う事は聞かされてないんだね」 「うん、でも他の妖怪(あやかし)は皆、龍の体なんだけど、俺だけ羽があるんだよ。だから多分、俺もそう勝手には思っ... 続きをみる
龍児が先に神様の前に行き、二礼、二拍手、(神様、姉の美奈子に必ず逢いますので見ていて下さい)と心で唱え一拍手をすると、綾香も見習って同じようにした。 「お辞儀を二回・拍手を二回・お辞儀を一回をするの?」と綾香が訊いた。 「綾香は人間なのに何も知らないんだな? 大まかに説明すると、初めの二礼は、『神様... 続きをみる
その時だった龍児は暫く固まった。 「龍児、どうしたの?」と言っても彼は返事をせずに、固まっているだけだった。 「龍児、どうしたの?」と綾香が心配して。 「思い出したんだよ」と龍児。 「何を?」と綾香。 「その氷川神社の鳥居をくぐって暫く歩くと右側に雷が落ちて屋根にポッカリとまわるく穴が空いている家が... 続きをみる
綾香は小さな声になって「龍、ちょっと待ってて」と言って部屋に入って浴衣を脱いで洋服を着ながら「お祖母ちゃん、遊んでくるね」と綾香。 「うん。行ってらっしゃい」と祖母。 綾香はそのまま玄関から外に出て、門の外で待っていた龍児に話し掛けた。 「神社って、村の入口にある、あの大きな所だよね?」と綾香。 「... 続きをみる
「はいよ、アイスね」 冷凍ショーケースの中にミルク味のホームランバーを見付けた綾香は取り出して「これを二本下さい」 祖母から預かった百玉を渡して八十円のお釣りをもらって店を後にした。 「暑いから食べようよ」と言って、龍児に渡すと、彼はその銀紙の包みを器用に開けて、「食べ終わったら棒に当たりがあるんだ... 続きをみる
この村に来て五日目の午後。綾香は細かいお金がないからと言った祖母から貰った百玉を持って出掛けようとしたがお店屋が分からないと気付いた。 「龍が来ないかな!?」と呟くと。 そこに龍児が、「どうした?」と言ってニッと笑いながら現れた。 「お祖母ちゃんがアイス買いなって言ってくれたんだけど、お店屋さんを知... 続きをみる
妖怪(あやかし)のとんでもない事実を知ってしまったと思っていて動揺しているのは綾香だけで当の龍児は何にも気にしていないのかサバサバとした顔をしていた。 「信じてくれて良かったよ。妖怪(あやかし)を信じない人間が増えているからさ」 「私も今の今まで、妖怪(あやかし)はいないと思っていたけど」 「流石、... 続きをみる
漢字や算数の宿題がなくても、それなら一緒にできる。いい考えだと思ったが、龍児はより怪訝な顔をした。 「あんた、美奈子じゃないんだよな?」 昨日もその名前で間違えられた。 「違うよ、綾香だって。その美奈子って人、捜しているんだっけ?」 「妖怪(あやかし)坂のことを気にしているのは、余計に美奈子っぽい。... 続きをみる
ヒロシは居間の方へと歩いていった。壁の向こうから祖母の声がする。その声を聞き、龍児が眉間に皺を寄せた。 「ここ、幸子(さちこ)の家か。あんた幸子の孫なの?」 「そうだよ。お祖母ちゃんのこと、知っているんだね」 「知っているも何も……この辺じゃ超有名だよ」 「そうだ、龍児、算数得意? 宿題一緒にやろう... 続きをみる
綾香は部屋から外に出て玄関に行くと表札を見た。 この辺は同じ名字の人が多いから、下の名前で呼び合うことが多いらしい。綾香の名字である、「雲母坂(きららざか)」は全国的には多くはない名字だけれど、現川(うつつがわ)村では珍しくないらしく、住民の三割くらいは雲母坂(きららざか)」姓だそうだ。 綾香の家系... 続きをみる
翌朝、綾香は祖母の家のすぐ前にある畑を案内された。畑と言っても、広めの家庭菜園といった大きさだ。 「綾香にお願いするしごどは、このトマトどミニトマトの畑のお手入れど、ご飯の支度のお手伝い。それがらお掃除どお洗濯も手伝ってほしぇし(ほしいし)、あど(あと)ヒロシの餌ど水ね」 「ヒロシ?」 「まだ会って... 続きをみる
名古屋の親戚や母から変わり者と訊いていた祖母を綾香は会う前から煙たがっていた。でもこの人はこんなに穏やかで優しい人だ。 不安がったり警戒したり、失礼なことをしてしまった。夕飯を食べながら内心反省した。やっぱり人は誰かの判断ではなくて自分の目で見て判断しなくてはいけないと思った。 大事な夏休みがこのド... 続きをみる
見上げた夕暮れの空がうっすらと星と月が浮かび始めていることに気付いた綾香だった。 しまった、明るい内に村に入らないと不幸になるんだった。というより、その迷信を信じている父だったので早く行かなくてはならないと思って焦った。 綾香は舗装されていない砂利道を、全速力で走って下った。 父が言っていた通り、正... 続きをみる
這い上がって膝の泥を払っていると、引っ張りあげた少年が目を丸くしていた。 「あんた……美奈子か?」 「えっ?」 綾香はきょとんと少年の顔を見た。 彼は目を大きく見開いた。 「美奈子だろ!? 俺、ずっと捜して……!」 少年が口を半開きにしてカタカタと肩を震わせた。どうやら、人違いをしているようだ。 「... 続きをみる
「綾香、この先に分かれ道があるけど……」と父が、なにか言っていたようだったけれど、もう綾香の耳には届いてなかった。 数分歩いたところで突如、現れた分かれ道だった。あまり聞いていなかったが、そう言えば父は分かれ道がなんとかって言っていた。 木々の塊を挟んで右は、少し道が開けていて明るいが、左は草木が鬱... 続きをみる
その祖母というのも、綾香の憂鬱の原因だった。祖母とはもう何年も会っていないが、母や名古屋の親戚を通して噂は聞いていた。 彼女は宗教をやっていて、毎朝晩、仏さんに拝んでいるとの事で親戚一同から変わり者と見られていた。 (そんな変人のところに、小学六年生の娘をひとりで置き去りにするなんて……)と綾香はた... 続きをみる
少年は青々とした葉をつける大きな樹に登り、砂利道の上で横に突き出た枝に腰を下ろし、脚をブラブラさせながら優しかった姉を思い浮かべていた。 下には石ころがそこら中に転がっている砂利道に車体をグラグラ揺らしながら見慣れない水色の車が通って行ったのを眺めていた。 ◇◆◇ ミーンミーンとうるさい蝉の声が車内... 続きをみる
※この拙作は小説投稿サイト様に公開しております。 登場人物 龍児(りゅうじ)/龍:現川村に住む少年の姿をした妖怪〈あやかし〉。羽を持つ龍の化身で、人間社会への憧れと初恋を胸に秘める。綾香を助け、隠れ里と人間界をつなぐ存在。 綾香(あやか):東京都品川区育ちの小学六年生。夏休みに祖母の住む秋田県の村へ... 続きをみる
そして、ある夜。 店のドアの向こうから、男が顔をのぞかせた。 麻衣子は、手にしていたグラスをそっと置き、目を細めた。 「おかえりなさい」 その言葉は、思いがけず麻衣子の唇からこぼれ落ちた。 自分でも驚くほど自然に、そして柔らかく。 男は一瞬、戸惑ったように眉を寄せた。 手紙に返事がなかったから、もう... 続きをみる
一週間後、店に一通の手紙が届いた。 「何から書いていいか、わからないが、正直に書きます」 そんな書き出しで始まるその手紙には、男の過去と現在が、包み隠さず綴られていた。 日光市で生まれ、両親は早くに他界。 足の不自由な妹が今市市(現在の日光市)に嫁いでいること。 高校卒業後、東京の親類を頼って調理器... 続きをみる
「なんでなの」 男がぽつりと訊いた。 「父がね、亡くなったばかりなの。それで……」 「父ひとり、子ひとりか」 「ええ」 「それは、つらいよな」 「家族は?」 麻衣子が問い返すと、男は少し目を伏せて言った。 「高校の頃、事故で死んだ。親父も、お袋も」 話すつもりはなかった。 けれど、気づけば麻衣子は語... 続きをみる
木造の、古びたアパート。 麻衣子の住まいだった。 「泊まっていってね」 麻衣子は、声を抑えてそう言った。 男は上着のポケットに手を入れ、煙草を取り出すと、もう片方の手で雪に濡れた前髪を乱暴に引いた。 麻衣子はそっと肩の雫を払ってやる。 男は車内でぽつりと言った。 「火あるか」 それが運転手に向けた言... 続きをみる
男はトイレに立ったついでにタクシーを頼み席に戻ると矢継ぎ早に言った。 「待たしてごめんなさい。名前を伺おうと思っていたんですが、なかなかきっかけがつかめなくて……」 男は、少し照れたように言った。 麻衣子は微笑を浮かべながら、そっと男の腕に自分の腕を絡めた。 「名前なんて、どうでもいいでしょう?」 ... 続きをみる
「市内に、今から?」 男の誘いに、麻衣子は少しだけ考え込んだ。 すぐに応じれば、軽い女と思われるかもしれない――そんな思いが胸をよぎる。 「日光のいい店でも、案内してもらおうかと思ってさ」 男が言い足すと、麻衣子は視線を伏せ、そっとうなずいた。 頬に滲む熱を隠すように、声を落として訊いた。 「洋食?... 続きをみる
ほろ酔い気分の六、七人の馴染みの地元客が折り重なるように入ってきた。 湿った重い空気を連れてきた客の群れはボックス席に陣取ると、真凛は「わぁっ」と声をあげ、拍手をしながら、そっちへ行った。 厚みのある素朴なフォルムと、手に馴染む温もりを湛えた益子焼の器。 外側は深い茶色に焼き締められ、内側には赤絵が... 続きをみる
その時、扉が半分ほど開いた。 見かけない男が肩と頭に雪を積もらせて店の入り口に立っていた。この季節に、薄手のカーデガンをはおっただけでマフラーもしていない。 「いいですか?」 と言いつつ、男は扉の中に半身を入れた。暖房を入れたばかりの時間に入ってくる一見(いちげん)客はそう多くない。 麻衣子は小さく... 続きをみる
杉木立の間を縫うように続く山道を左に折れると、視界がふいに開け、静寂に包まれた中禅寺湖が青く凍てついていた。湖畔の町並みは、降り積もった雪に覆われて、鼠色の空の下、まるで墨絵のような静謐な世界を描いていた。 麻衣子は、お寺の前の平坦な道をわざと避けて歩いた。 春から夏にかけては、野草が好き放題に伸び... 続きをみる
※この拙作は小説投稿サイト様に公開しております。 (あらすじ) 日光市中禅寺湖のほとり、雪に閉ざされた町でスナックを営む麻衣子は、長年の看病の末に父を亡くし、心に空洞を抱えながら日々を過ごしていた。 ある雪の夜、店に現れた一人の男。東京から来たその男は、麻衣子の心に静かに触れ、何も求めず、ただ隣にい... 続きをみる
日々の趣味や生活について綴ってきましたが、冬になるとどうしてもネタが尽きてしまい、筆が止まることもありました。 そこで、これまで個人的に書きためてきた小説を、少しずつ公開してみようと思います。 私は現代文学からライト文芸や企業・経済系、そしてエッセイ、更にはライト官能小説などを書いてきましたが、その... 続きをみる