創作ノートのムラゴンブログ

  • 120年前の草津温泉

    120年前といえば明治時代になりますが、その頃も湯畑を中心に草津温泉は湯治場として栄えていました。 明治の頃、旅館は一等、二等、三等、四等、五等とランク付けされていたようです。 草津温泉で一等旅館は、望雲館、一井、日新館、大東館、長善館、山本館の6つでした。望雲館は今のホテル望雲、長善館は大坂屋です... 続きをみる

  • 豊臣秀吉と草津温泉

    文禄4年(1595年)正月、豊臣秀吉は草津温泉に湯治に出かける計画を建てました。当時の草津温泉は真田昌幸の領内で、草津の領主は湯本三郎右衛門です。 8年前の天正15年(1587年)4月には、秀吉の妹で、徳川家康の妻となった朝日姫が草津の湯に入っています。翌年の天正16年には、秀吉の養子になった秀次が... 続きをみる

  • 室町幕府八代将軍、足利義政

    足利義政といえば、銀閣寺を建てた将軍として有名ですが、将軍としての仕事をする事ができずに、応仁の乱の原因を作ってしまった人と言えます。 義政は、嘉吉の変で赤松氏に殺された六代将軍義教の子で、七代将軍義勝の弟です。次男なので当然、僧侶になる予定でしたが、兄が10歳で亡くなってしまったために、8歳の時に... 続きをみる

  • 古河公方 足利成氏

    関東の武士たちをまとめるために、足利尊氏が倅の基氏をかつて幕府のあった鎌倉の地に派遣したのが鎌倉公方の始まりです。基氏の子孫が代々公方を継いでいます。 四代目の持氏の時、五代将軍の義量がわずか19歳で亡くなり、六代将軍を決める前に、四代将軍だった義持も亡くなってしまいます。義持には義量の他には男子は... 続きをみる

  • 山科言継

    山科言継(やましなときつぐ)はお公家さんで、戦国の世に寂れてしまった宮廷を建て直すために奔走した人です。各地の武将を訪ねては得意な蹴鞠や和歌の指導をして献金を集めました。 上泉伊勢守が武将をやめて武芸者として京都に行った時、山科言継は伊勢守のために色々とお世話をしています。伊勢守が京都に道場を開く事... 続きをみる

  • 西村勘九郎

    西村勘九郎は幼い頃に京都の妙覚寺に入れられ、法蓮坊を名乗って日蓮宗の修行を積みますが、23歳の頃、還俗して松波庄五郎を名乗ります。 26歳の頃、油商人奈良屋又兵衛の娘に惚れて婿に入ります。何年かして屋号を山崎屋に変えますが、随分と繁盛したようです。娘も生まれて、商売もうまく行っていたのに、32歳の頃... 続きをみる

  • 内藤修理亮昌豊

    内藤修理亮(しゅりのすけ)昌豊は甲斐の武田家の重臣です。 父親の工藤下総守虎豊は武田信虎の重臣でしたが、信虎の勘気に触れて殺されてしまいます。昌豊は兄と一緒に甲斐の国を去って旅に出ます。 信玄が父の信虎を追放して家督を継いだ後の天文15年(1546年)、昌豊は甲府に呼び戻され、工藤家の旧領を与えられ... 続きをみる

  • 葛山氏広

    伊勢(北条)早雲の三男、氏広は駿河の国の駿東郡に勢力を持っていた葛山(かづらやま)氏の養子になります。葛山氏は母親の実家で、跡継ぎに恵まれなかったため、婿養子に入ったようです。 氏広は中務少輔と称して、永禄6年(1563年)まで生きて、73歳の長寿を全うしますが、詳しい事はわかりません。 伊豆の国を... 続きをみる

  • 三浦道寸

    三浦道寸は相模守護の扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の生まれですが、7歳の時に守護代の三浦高時の養子になります。15歳の時に元服して、三浦新介義同(よしあつ)を名乗ります。 三浦家の跡継ぎとして、戦でも活躍しますが、義同が34歳の時、男子のなかった養父に長男、駒若丸が生まれます。養父は駒若丸を可愛がり、三... 続きをみる

  • 北条氏時

    北条氏時は伊勢(北条)早雲の次男です。長享3年(1489年)頃、駿河の興国寺城で生まれます。母親は葛山(かづらやま)備中守の娘のようです。 15歳頃、元服して、新六郎氏時を名乗り、22歳の頃には、岡崎城攻めの前線基地だった鴨沢の要害を守っています。 永正9年(1512年)8月、父早雲は三浦道寸の岡崎... 続きをみる

  • 北条綱成

    北条綱成は小田原北条氏二代氏綱の娘婿です。 父親は今川家の武将福島(くしま)正成で、父親が戦死した後、北条氏綱を頼って小田原に来ます。なぜ、今川家を離れて、北条家を頼ったのかはわかりません。もしかしたら、福島家内で家督争いが起こり、身の危険を感じた正成の家臣が、当時7歳だった綱成を連れて小田原に行っ... 続きをみる

  • 北条氏政

    小田原北条氏四代目の当主が氏政です。父親は北条氏康、母親は今川氏親の娘です。 氏政は次男でしたが、兄の新九郎が二十歳前後で亡くなってしまったために跡継ぎになりました。 17歳の時、北条家と武田家が同盟を結び、氏政は武田信玄の長女(黄梅院)を嫁に迎えます。当時、黄梅院はまだ12歳でした。 永禄2年(1... 続きをみる

  • 北条氏康

    北条氏康は早雲の孫で、氏綱の長男です。幼名は伊豆千代丸といい、永正12年(1515年)、小田原城で生まれます。 氏康が生まれた時はまだ伊勢氏を名乗っていて、祖父の早雲は84歳でしたが健在でした。氏康が生まれた翌年、早雲は三浦道寸の籠もる新井城を落として、相模の国を平定します。 氏康が5歳の時に、祖父... 続きをみる

  • 三代目中村歌右衛門

    文化5年(1808年)3月、31歳の時に、中村歌右衛門は上方から江戸に下って来て大活躍します。 目はぎょろっとして体は小さく、体格や容貌には恵まれなかったようですが、演技力でカバーして江戸っ子たちの人気者になります。 主役だろうが悪役だろうが、男役だろうが女役だろうが何でもこなして、一つの芝居の中で... 続きをみる

  • 江戸時代の歌舞伎

    江戸時代の文化といえば、歌舞伎を除く事はできません。芝居見物は庶民たちにとって一番の娯楽で、当時の流行も歌舞伎役者たちから発信されていました。有名な役者たちは、今で言えば大スターで、井戸端に女たちが集まれば、噂話に花を咲かせていました。男たちも役者の声色を真似たり、粋な着こなしを真似していたようです... 続きをみる

  • # 創作ノート
  • 戦国大名の年齢差

    関東を舞台に合戦に明け暮れた北条氏康、武田信玄、上杉謙信の年齢を比べてみますと、氏康は1515年生まれ、信玄は1521年生まれ、謙信は1530年生まれです。 最初の川中島合戦があった天文22年(1553年)、謙信は24歳、信玄は33歳でした。信玄から見れば、謙信は小憎らしい若造といった感じだったでし... 続きをみる

  • 西行法師

    ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月の頃 この歌で有名な西行(さいぎょう)法師は元永元年(1118年)に生まれました。平清盛と同い年で、源頼朝より29歳年上です。 出家前の名は佐藤義清(のりきよ)といい、藤原秀郷の九代目の子孫です。 鳥羽院の北面の武士でしたが、23歳の時に出家し... 続きをみる

  • 渓斎英泉

    渓斎英泉は退廃的な婀娜(あだ)っぽい、粋な美人画を描いた浮世絵師です。 寛政3年(1791年)、江戸星ケ岡に池田政兵衛の子として生まれ、善次郎と名付けられます。6歳の時、母親が亡くなり、翌年、父親は後妻を迎えます。 12歳の時、狩野白珪斎に師事して絵を学びます。 15歳の時、元服して、安房北条の水野... 続きをみる

  • 護佐丸

    護佐丸(ごさまる)は尚巴志(しょうはし)のために戦い続けた戦国武将です。 父親は山田按司で、曾祖父は今帰仁按司(なきじんあじ)でした。曾祖父の敵(かたき)を討って、今帰仁グスクを奪い返すために、幼い頃から武芸に励みます。 護佐丸という名は死後に贈られた名前か、生存中にヌルに名付けられた神名かわかりま... 続きをみる

  • 馬天ヌル(馬天ノロ)

    尚巴志(しょうはし)の叔母の馬天(ばてぃん)ヌルは、先代の馬天ヌルが亡くなった時、島添大里(しましぃうふざとぅ)のサスカサヌルから教えを受けるように言われます、しかし、若く自惚れも強かった馬天ヌルは、先代からすべてを教わったので、これ以上、学ぶものなど何もないと思って、教えを受けませんでした。 とこ... 続きをみる

  • 三好日向

    尚巴志(しょうはし)の武術師範を誰にするかを考えた時、まず、浮かんだのは神道流(しんとうりゅう)の流祖の飯篠長威斎(いいざさちょういさい)でした。しかし、長威斎は尚巴志よりも15歳も年下でした。 次に、念流(ねんりゅう)の慈恩(じおん)を調べると、尚巴志よりも二十歳位、年上でした。年齢的には丁度いい... 続きをみる

  • 島添大里按司

    島添大里按司(しましぃうふざとぅあじ)の本拠地、島添大里グスクは馬天港と与那原港を見下ろす山の上にあります。「島添」とは島々を支配するという意味があり、島添大里按司はかなり古くから勢力を持っていた按司のようです。 初代の浦添按司(うらしいあじ)、舜天(しゅんてん)の母親は島添大里按司の娘だったと伝え... 続きをみる

  • 勝連按司

    勝連(かちりん)グスクの城主、勝連按司(あじ)は古くから日本との交易をしていたようです。 近くの泡瀬干潟でタカラガイが採れ、それを目当てに遠く日本から商人たちがやって来ました。その取り引きをした者たちが富を守るために築いたのが勝連グスクの始まりでしょう。 やがて、ヤコウガイやホラ貝の取り引きも始めて... 続きをみる

  • 察度

    察度(さとぅ)は浦添(うらしい)グスクの城主で、初めて明国(みんこく)皇帝から冊封(さっぷう)を受けて琉球中山王(ちゅうざんおう)になります。丁度、尚巴志(しょうはし)が生まれた1372年に明国から琉球(沖縄)に使者が来ました。 父親は奥間大親(うくまうふや)で、母親は天女だったそうです。1321年... 続きをみる

  • 伊波按司

    尚巴志(しょうはし)の妻は伊波按司(いーふぁあじ)の娘です。 伊波按司は沖縄本島中部の伊波グスクの城主です。以前は北部の今帰仁(なきじん)グスクの城主の息子でしたが、羽地(はにじ)按司に攻められてグスクを奪われてしまいます。何とか逃げのびて伊波の山中に隠れていた所を村人に助けられ、伊波にグスクを築い... 続きをみる

  • 屋蔵大主

    屋蔵大主(やぐらうふぬし)は尚巴志(しょうはし)の曾祖父です。 父親は沖縄本島南部の与座按司(よざあじ)で、兄の島尻大里(しまじりうふざとぅ)按司に攻められて戦死してしまいます。屋蔵大主は追っ手を逃れて伊平屋(いへや)島にたどり着きます。伊平屋島出身の家臣の手引きがあったのかもしれません。 我喜屋(... 続きをみる

  • 佐銘川大主

    佐銘川大主(さめがわうふぬし)は尚巴志(しょうはし)の祖父です。 1330年頃、伊平屋(いへや)島で生まれます。父親は屋蔵(やぐら)大主、母親は我喜屋(がんじゃ)ノロです。 父親の屋蔵大主は隣の伊是名(いぜな)島も支配下に置き、長男の佐銘川大主を伊是名島に配置します。 ある年、飢饉となり、佐銘川大主... 続きをみる

  • 思紹

    尚巴志(しょうはし)の父親、苗代大親(なーしるうふや)は中山王(ちゅうざんおう)となって思紹(ししょう)と名乗ります。 1354年に沖縄本島南部の佐敷(南城市)に生まれます。父親は佐銘川(鮫川)大主(うふぬし)、母親は大城按司(うふぐすくあじ)の娘です。 美人として評判だった美里之子(んざとぅぬしぃ... 続きをみる

  • 尚巴志

    尚巴志(しょうはし)は沖縄の戦国時代を制して、沖縄を統一した英雄です。 1372年に沖縄本島南部の佐敷(南城市)で生まれています。その頃、日本は南北朝時代で、室町幕府の将軍は足利義満でした。 尚巴志の父親は苗代大親(なーしるうふや)、母親は美里之子(んざとぅぬしい)の娘です。父親の苗代大親はやがて佐... 続きをみる

  • 尚巴志との出会い

    琉球王国は日本の国ではありません。ですから、日本史では琉球の歴史は学べません。 私が、尚巴志(しょうはし)という人物を知ったのは15年ほど前の事です。それまで、私はその存在すら知りませんでした。 「沖縄二高女看護隊・チーコの青春」を書くとき、沖縄の昭和史は調べましたが、それ以前の事は何も知りませんで... 続きをみる

  • リリー・マルレーン

    【ドイツ語】リリー・マルレーン (Lili Marleen) (日本語字幕) 「リリー・マルレーン」は第二次世界大戦中、ドイツ人の歌手、ララ・アンデルセンが歌って、ドイツ兵だけでなく、敵のイギリス兵たちの間にも大流行した歌です。 ラジオからこの曲が流れると敵も味方も攻撃を中止して、歌に耳を傾け、遠い... 続きをみる

  • 戦時中の替え歌

    ラバウル小唄(南洋航路) - 歌詞付き - 昭和19年 テレビもなく、ラジオが唯一の情報源だった戦時中、流行歌の歌詞を変えて歌うのが、結構、流行っていたようです。 「同期の桜」は西城八十作詩の「二輪の桜」の替え歌で、「ラバウル小唄」は若杉雄三郎作詩の「南洋航路」の替え歌です。両方とも、元歌よりも替え... 続きをみる

  • 湖畔の宿

    高峰三枝子 - 湖畔の宿 (1940) 「湖畔の宿」は佐藤惣之助さん作詞、服部良一さん作曲、歌う映画スターと言われた高峰三枝子さんが歌って、昭和15年5月にコロムビアから発売されて大ヒットしました。 やがて、厳しい戦況となり、女々しくて感傷的な歌だと発売中止となってしまいますが、人々は歌い続けます。... 続きをみる

  • 新雪

    新雪 昭和17年 (唄 灰田勝彦) 作詞 佐伯孝夫 作曲 佐々木俊一 「新雪」は月丘夢路さん主演の大映映画「新雪」の主題歌で、佐伯孝夫さん作詞、佐々木俊一さん作曲、灰田勝彦さんが歌って昭和17年8月にビクターから売り出されて大ヒットしました。 ハワイ生まれの灰田勝彦さんは俳優としても活躍し、「新雪」... 続きをみる

  • 可愛いスーちゃん

    可愛いスーちゃん お国のためとは 言いながら 人の嫌がる 軍隊に 志願で出てくる バカもいる 可愛いスーちゃんと 泣き別れ 朝は早よから 起されて ぞうきんがけやら はき掃除 いやな上等兵にゃ いじめられ 泣く泣く送る 日の長さ 乾パンかじる ひまもなく 消灯ラッパは 鳴りひびく 五尺の寝台 わらぶ... 続きをみる

  • 蘇州夜曲

    Soshu Yakyoku 蘇州夜曲 1 - 李香蘭 「蘇州夜曲」は西条八十さん作詞、服部良一さん作曲、渡辺はま子さんと霧島昇さんが歌って、昭和15年8月にコロムビアから売り出されて大ヒットしました。 この曲は、李香蘭さん主演の映画「支那の夜」の主題歌として作られ、映画の中では李香蘭さんが歌っていま... 続きをみる

  • 愛国行進曲

    愛国行進曲 愛国行進曲は昭和12年に一般公募して生まれた歌で、レコード会社が競って売り出し、国民の心を捉えて100万枚を突破する大ヒットになりました。 国民学校や中学校、女学校で行進する時には必ず、この曲が使われました。 作詞者は鳥取県の23歳の青年、森川幸雄さんで、詞が決まってから作曲の方も公募さ... 続きをみる

  • 渡辺はま子

    あゝモンテンルパの夜は更けて 渡辺はま子 戦時中、女学生たちが好んで歌った歌に「愛国の花」という歌があります。明治時代に作られた「婦人従軍歌」に対して、昭和の「婦人従軍歌」と呼ばれました。歌ったのは渡辺はま子です。 昭和13年に国民歌謡としてラジオで放送されて、大反響になってレコード化されました。... 続きをみる

  • 李香蘭

    何日君再来(李香蘭) 李香蘭は戦時中の映画スターです。日本語読みではリ・コーラン、中国語読みではリー・シャンランです。もともと日本人ですが、満州映画協会から中国人女優としてデビューしました。 大正9年に中国の満州に生まれ、中国語が堪能で歌もうまかったので、13歳の時に、李香蘭としてラジオ番組で歌手デ... 続きをみる

  • 戦時中の流行歌

    昭和12年7月、日中戦争が始まって、その年の9月、「露営の歌」が大ヒットします。「勝って来るぞと勇ましく~」という歌です。 翌年の13年2月に「愛国行進曲」が大ヒット、4月には「日の丸行進曲」がヒットします。「露営の歌」も「愛国行進曲」も「日の丸行進曲」も一般から歌詞を募集して、作曲家が曲を付けまし... 続きをみる

  • 戦時中の物価

    戦時中の貨幣は200円札(文様)、100円札(聖徳太子)、20円札(藤原鎌足)、10円札(和気清麿)、5円札(菅原道真)、1円札(竹内宿禰)、50銭札(富士山と桜)、10銭札(八紘一宇)、5銭札(楠正成)と10銭ニッケル貨、10銭アルミ銅貨、5銭ニッケル貨、1銭銅貨がありました。 アンパンが5銭、ジ... 続きをみる

  • 沖縄県知事 島田叡

    十・十空襲の後、県庁は焼け残ったにもかかわらず、県知事は普天間に避難したまま戻っては来ませんでした。内務省の勧告があって、11月の初めにようやく那覇に戻りますが、年末に公用のためと言いながら沖縄を離れ、その後、香川県知事になってしまいます。 沖縄は見捨てられた、もう知事も来ないだろうと県民は諦めてい... 続きをみる

  • 沖縄陸軍病院第一外科 上原貴美子婦長

    ひめゆりの生徒たちの手記に必ずといっていいほど出て来るのが上原婦長です。優しく、強く、働き者で、その上、美人の上原婦長は生徒たちに慕われ、患者たちに頼りにされ、兵隊たちからも一目置かれた、尊敬すべき女性でした。 上原婦長は1919年、糸満に生まれました。17歳の春、看護婦養成所に入って、一年後に看護... 続きをみる

  • 沖縄陸軍病院

    第32軍直属の陸軍病院は熊本の陸軍病院において編成されました。病院長は広池軍医中佐で、那覇の開南中学校に本部が置かれました。 10月10日の空襲で本部のあった開南中学、外科のあった済生会病院、兵舎として使用していた第二中学も皆、破壊されて、南風原の国民学校に移動します。 翌年の2月、師範学校女子部と... 続きをみる

  • 牛島満陸軍中将

    牛島中将は沖縄戦の第32軍の司令官です。昭和20年6月23日早朝、長勇参謀長と共に自決して果てます。 鹿児島県出身で、明治39年、陸軍士官学校に入学、大正5年に陸軍大学を卒業します。 大正7年、野戦鉄道司令部参謀としてシベリアに出征し、活躍します。 シベリアから戻ると、陸軍歩兵学校の教官となり、その... 続きをみる

  • 沖縄守備軍・第32軍

    昭和19年3月、沖縄守備軍・第32軍が新設されます。それまでの沖縄は小規模な砲兵部隊がいくつか駐屯するだけの無防備状態でした。 その年の7月にサイパン島が玉砕すると、第32軍も強化されて、大陸(中国)から精鋭部隊が集まって来ます。司令官は渡辺中将から牛島中将に替わり、参謀長も北川少将から長少将に替わ... 続きをみる

  • 沖縄の鉄道、ケービン

    米軍が上陸した昭和20年の4月まで、沖縄には鉄道が走っていました。 軽便(けいべん)鉄道という小型の蒸気機関車で、那覇を基点に北は嘉手納まで、東は与那原まで、南は糸満まで走っていて、「ケービン」と呼ばれて親しまれていました。 大正3年(1914)、那覇から与那原までが開通し、大正11年に、那覇から嘉... 続きをみる

  • 十・十空襲

    フィリピンのレイテ島を攻略する作戦を立てた米軍は、日本軍に邪魔されないように沖縄の軍事基地を前もって破壊しようと考えます。 昭和19年10月10日、晴れ渡った早朝の6時40分、米軍機が編隊を組んで那覇上空に現れて、小禄飛行場(現在の那覇空港)と那覇港に爆弾を落とします。 突然の事で、那覇の人々は敵襲... 続きをみる

  • ひめゆりの塔

    ひめゆりの塔は、南風原から撤退して来た陸軍病院の第三外科が本拠地を置いた伊原の自然壕の上に立っています。 第三外科は初め、伝染病科でしたが、負傷兵が多くなるに従って、外科だけでは間に合わなくなって、内科が第二外科となり、伝染病科が第三外科となります。 第三外科の診療主任は那覇市出身の嘉手川軍医中尉で... 続きをみる

  • ずいせん学徒隊

    戦後、ずいせん学徒隊と呼ばれるようになった県立首里高等女学校は首里の桃原町にありました。 明治30年創立の女子工芸学校が、昭和18年に県立女学校になります。昭和の初め頃まで、首里城内の御殿を校舎として使っていたようです。 昭和19年の夏頃から首里高女は軍の被服工場になって、生徒たちは毎日、軍用の蚊帳... 続きをみる

  • 白梅の塔

    沖縄戦で犠牲になった県立第二高等女学校の生徒たちが眠る白梅の塔は、いつも観光客で賑わっているひめゆりの塔とは対照的に、静かな森の中にひっそりと立っています。 県立第二高等女学校は琉球松の生い茂った松尾山という小高い丘の上にありました。白壁の美しい木造二階建ての校舎だったそうです。周りには知事官舎や那... 続きをみる

  • 御子神の丈吉

    Mikogami Trilogy 1: The Trail Of Blood (1972) - Japanese Trailer w/Eng Sub // 無宿人御子神の丈吉 牙は引き裂いた 笹沢佐保の股旅小説に「無宿人御子神の丈吉」というのがあります。一度は足を洗って堅気になった丈吉が妻を殺されて... 続きをみる

  • 木枯し紋次郎

    だれかが風の中で 木枯し紋次郎 笹沢左保原作の「木枯し紋次郎」は1972年正月から中村敦夫主演でテレビドラマ化されて、大ヒットしました。 「あっしには関わりがねえこって」が流行語になり、長い楊枝を口にくわえるのが流行りました。私も紋次郎に憧れて、中山道を歩いたりもしました。 小説の「木枯し紋次郎」は... 続きをみる

  • 国定忠治の仕置場

    国定忠治が関所破りをした大戸の関所跡から南に500m程行くと忠次の仕置場跡(処刑場跡)があります。 嘉永3年(1850年)12月21日、国定一家の親分、忠治は磔(はりつけ)刑に処せられました。 磔刑は主殺し、親殺し、関所破り、偽金銀を作った者、密通して夫を殺した女など、封建制度そのものの維持に重大な... 続きをみる

  • 関東取締出役と道案内

    八州廻りとか八州様とか呼ばれる関東取締出役(しゅつやく)が設置されたのは文化2年(1805年)6月の事です。 関東の国々は幕府の直轄領(天領)、旗本領、藩領、寺社領がモザイクのように入り乱れていて、支配者の違う他領に逃げ込んだ犯罪者を逮捕する事ができませんでした。特に上州(群馬県)は細切れ状態になっ... 続きをみる

  • 玉村宿の玉斎楼

    日光例幣使道の玉村宿は飯盛女と呼ばれる宿場女郎が大勢いた事で有名ですが、中でも、玉斎楼(ぎょくさいろう)と呼ばれた万屋(よろずや)は玉村一の旅籠屋でした。 玉斎楼は豪奢な構えで、江戸の吉原にも2軒とはあるまいと言われ、近くにある岩鼻代官所の代官や関東取締出役がよく利用していました。1868年の記録で... 続きをみる

  • 木崎宿と木崎音頭

    日光例幣使道の木崎宿は飯盛女という女郎が大勢いた事で有名でした。 国定忠治が処刑される五年前の弘化2年(1845年)には旅籠屋が29軒あって、飯盛女は183人もいたそうです。越後から売られて来た娘が多かったようです。 吉田屋という旅籠屋におとらという飯盛女がいて、忠治のお気に入りでした。忠治が捕まっ... 続きをみる

  • 日光例幣使道

    日光例幣使道は中山道の倉賀野宿から日光壬生道の楡木宿までをつなぐ街道で、「例幣使」と呼ばれる朝廷の勅使が、徳川家康を祀る日光東照宮の大祭へ向かうために、毎年4月に通りました。 例幣使の一行は60人前後で、1647年から1867年まで、一度も中止される事なく続いたというから驚きです。1846年だけ、天... 続きをみる

  • 生田万

    生田万(よろず)は享和元年(1801年)、上州館林藩士の長男に生まれ、23歳の時に江戸に出て、国学者の平田篤胤の門人になります。 文政11年(1828年)10月、藩政改革の意見書を提出しますが、それが藩主の怒りに触れて、館林藩から追放されてしまいます。再び江戸に出て、篤胤のもとで4年間暮らしてから、... 続きをみる

  • 赤堀村の本間道場

    国定忠治が生きていた時代、国定村の近くの赤堀村に本間道場という剣術道場がありました。 道場主は本間千五郎(1784-1874)といい、門人は数百人いたと言われています。北辰一刀流の千葉周作が伊香保神社に額を奉納しようとして、馬庭念流の樋口家と争いになった事件に千五郎も参加しています。俳人としても有名... 続きをみる

  • 保泉の久次郎

    国定忠治の子分、保泉の久次郎は上州保泉(ほずみ)村(群馬県伊勢崎市)の農家の次男に生まれます。 15歳の頃、百々(どうどう)一家の三下奴(さんしたやっこ)になって、17歳の頃、子分に取り立てられます。久次郎が子分になった頃、国定村の忠治が大前田栄五郎の紹介状を持って、百々一家にやって来ます。 忠治は... 続きをみる

  • 百々村の紋次親分

    国定一家の忠次親分も当然の事ながら、最初から親分だったわけではなく、子分時代がありました。 絹糸市が開かれて栄えていた日光例幣使道の境宿の隣に百々(どうどう)村という村があって、そこで「百々一家」を張っていた紋次親分がいました。忠次は大前田栄五郎の紹介で紋次の子分になります。 紋次親分は百々村の裕福... 続きをみる

  • 国定忠次と有名な侠客たち

    大親分と呼ばれた大前田栄五郎は寛政5年(1793年)生まれですから、忠次より17歳年長です。 「天保水滸伝」で有名な笹川の繁蔵は文化7年(1810年)生まれで、忠次と同い年です。八丈島送りになった津向の文吉も忠次と同い年です。 清水の次郎長は文政3年(1820年)生まれですので、忠次より10歳も若く... 続きをみる

  • 博奕打ちの世界

    博奕打ちの一家には親分、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居、そして、三下奴(さんしたやっこ)の身分がありました。 親分は貸元(かしもと)とも呼ばれ、縄張りを持って一家を張ります。 子分には親分と直々に盃を交わした手作りの子分、先代の子分でしたが、改めて、盃を交わした譲りの子分、よその一家から来て子分に... 続きをみる

  • 国定忠治の子分たち

    1934(昭和9)『赤城の子守唄』東海林太郎の大ヒット出世作! 国定忠治の子分で有名なのは、映画「赤城の子守唄」に出て来る板割りの浅太郎がいますが、実際の名は浅次郎です。板割りという名は父親がこけら葺きの屋根に敷く板作りの職人だったからと伝えられています。下植木村の浅次郎とも呼ばれ、足が速く、槍も得... 続きをみる

  • 弁天のおりん

    日光の円蔵の妻は女壷振り師で、通り名を弁天のおりんといいます。 そのいわれは博奕打ちに成り立ての若い頃、勝負に負けてオケラになってしまい、悔しくて帰る事もできず、襦袢姿になって着物を賭けました。それでも負けてしまい、ついに素っ裸になって襦袢と腰巻も賭けました。ようやく、運が巡って来て勝負に勝ち、着物... 続きをみる

  • 日光の円蔵

    国定一家で軍師と呼ばれた日光の円蔵は野州(栃木県)都賀郡の落合村に生まれました。幼い頃より寺に入れられますが、17歳の頃、寺を飛び出して、野州無宿の日光の円蔵を名乗って旅に出ます。寺にいた時の名前が、晃円といい、晃を分解して日光、円に蔵をくっつけて日光の円蔵としたようです。 親分子分の関係を持たずに... 続きをみる

  • 島村の伊三郎

    国定忠治に殺された島村の伊三郎は東上州の利根川流域を仕切っていた親分でした。 船問屋の倅に生まれて、二十代の半ば頃、無宿者になって島村一家を張ります。本姓は町田といい、背丈が6尺もあった大男だと伝えられています。最初の縄張りは島村と平塚河岸でした。 当時の平塚は江戸と上州を結ぶ航路として栄えていまし... 続きをみる

  • 大前田栄五郎

    大前田栄五郎の本名は田島栄五郎です。一般に大前田村の栄五郎で通っていますが、大前田一家の親分ではありません。大前田一家は兄の要吉が継いでいたので、栄五郎は旅で男を売って名を上げました。名古屋から伊豆にかけて東海地方に縄張りを持っていたようです。 15歳の時、兄弟分の月田村の栄次郎と一緒に三下奴を斬っ... 続きをみる

  • 国定忠治の愛妾、お町

    国定忠治が捕まった時、一緒にいたのは妾のお町でした。 お町は国定村の隣村の田部井(ためがい)村に生まれ、忠治とは同い年です。 父親は尾内(おない)市太夫といい、お町が幼い頃に亡くなったようです。庄八という兄がいて、博奕打ちになって、尾内の嘉藤太(かとうた)と呼ばれ、身代を潰してしまいます。お町が六歳... 続きをみる

  • 国定忠治

    国定忠治は国定村の忠次郎の略で、本名は長岡忠次郎といいます。 先祖は新田義貞の家臣だったらしく、代々長岡姓を持っていました。身分は農民だったので、堂々と姓を名乗る事はできませんでしたが、国定村の名主を務めた事もある裕福な農民だったようです。 10歳の頃、父親を亡くして、村でも評判のガキ大将に育ち、博... 続きをみる

  • 平兵衛池

    草津温泉から香草を通って、さらに山奥に入っていくと平兵衛池という静かな沼があります。 昔、草津温泉にあった湯本平兵衛という宿屋の十七歳になる美しい娘が五月の半ば頃、女中たちを引き連れてワラビ狩りに出掛けました。とある綺麗な沼のほとりで一休みした時、お嬢様は喉が渇いたので、水を飲もうと沼に近づきます。... 続きをみる

  • 草津温泉の宿、湯本安兵衛

    草津温泉の湯本家は建久4年(1193年)、源頼朝から湯本の姓と三日月の家紋を授かったと伝えられています。 戦国時代には湯本善太夫が武田家の家臣となって草津温泉を守りますが、長篠の合戦で戦死してしまいます。善太夫の跡を継いだ三郎右衛門は真田昌幸に仕えて、草津温泉を守ります。 江戸時代には真田家の重臣と... 続きをみる

  • 曲亭馬琴

    曲亭馬琴は「南総里見八犬伝」の作者として有名です。 25歳の正月、山東京伝の門人、大栄山人という名で、黄表紙を売り出したのが、戯作者としての始まりです。 その頃、京伝の紹介で、版元の蔦屋重三郎のもとで番頭として働きながら黄表紙を書きます。 何作もの黄表紙を発表しますが、話題になる作品もなく、失敗に終... 続きをみる

  • 二代目十返舎一九

    あまり知られてはいませんが、十返舎一九には二代目を継いだ弟子がいます。本名は糸井武、通称は鳳助といいます。 上州勢多郡花輪村の生まれで、20歳の頃、狂歌師を志して江戸に出て、大田南畝に師事します。滝の糸丈という狂歌名で、文政年間に数多くの狂歌を残しています。 文政6年(1823年)に大田南畝が亡くな... 続きをみる

  • 草津温泉の俳人、雲嶺庵鷺白

    鷺白(ろはく)は本名を黒岩忠右衛門といい、老舗の宿屋の主人です。現在の「ホテル望雲」の先祖にあたります。 芳草舎、老狸窟、雲嶺庵と号して、小林一茶とも交流がありました。一茶は文化5年(1808年)、信州に帰る途中、草津温泉に寄って鷺白を訪ねています。その時は18年振りの再会だったようです。 鷺白は文... 続きをみる

  • 感和亭鬼武

    感和亭鬼武(かんわていおにたけ)はもと武士で、本名は前野曼七といいます。神道無念流の剣術の達人で、一橋家の勘定役を務めていたのに、さっさと隠居してしまい、戯作に専念するために侍をやめて町人となった変わり者です。 飯田町に住んでいましたが浅草に移り、山東京伝の門人になって戯作を学び、絵は谷文晁に学んで... 続きをみる

  • 為永春水

    為永春水(ためながしゅんすい)は人情本「春色梅暦」の作者として有名です。 人情本というのは洒落本から発達した読物で、婦女子向けの恋愛小説です。当時、女性向けの読物は少なく、春水の人情本は大いに受けました。 寛政2年(1790年)に生まれた春水は20代の半ば頃、越前屋長次郎を名乗って貸本屋を始めます。... 続きをみる

  • 滝亭鯉丈

    滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)は都八造(みやこはちぞう)と称して、一中節の三味線弾きとしても有名でした。寄席にも顔を出して、落語をやったり、一中節や新内節を語りました。手先が器用で、櫛作りや竹細工、象牙細工、駕籠の修繕などもしたようです。 40歳位から滝亭鯉丈の名で滑稽本を書き始め、文政3年(182... 続きをみる

  • 蔦屋重三郎

    蔦屋重三郎は「蔦重」と呼ばれ、喜多川歌麿や東洲斎写楽を売り出した版元として有名です。 寛延3年(1750年)の正月、吉原の遊廓内で生まれた蔦重は二十代の半ば頃、吉原の大門前に小さな本屋を開業して、「吉原細見」と呼ばれる遊廓の案内書を売り始めます。 安永9年(1780年)頃から、黄表紙や洒落本、狂歌本... 続きをみる

  • 東海道中膝栗毛

    弥次さん北さんで有名な「東海道中膝栗毛」が発表されたのは享和2年(1802年)の事でした。作者は十返舎一九で、それまでに何作もの黄表紙を発表していましたが、話題になるほどの作品はありませんでした。 「膝栗毛」は黄表紙ではなく滑稽本で、一九は書き上げた原稿をかつて居候をしていた事もある蔦屋重三郎のもと... 続きをみる

  • 江戸時代の草津温泉

    上州の草津温泉は江戸時代の初期まで真田家の家臣だった湯本家の支配地でした。 湯本家は鎌倉時代より代々草津の領主として、草津の湯を守って来ました。戦国時代の領主だった湯本善太夫は武田信玄に仕えて、長篠の合戦で戦死しています。善太夫の跡を継いだのが湯本三郎右衛門で、真田昌幸の家臣となって活躍します。三郎... 続きをみる

  • 喜多川歌麿と艶本

    艶本(えほん)は枕絵とか、春本とか、わ印(わらい本)とか呼ばれています。 江戸時代、幕府に禁止されていた書物ですが、版元は裏に隠れて盛んに出版していました。それを描く浮世絵師も勿論、禁止されているのを承知で、腕によりを掛けて描いていました。 美人絵を描かせたら天下一品と言われる歌麿は当然のごとく、腕... 続きをみる

  • 山東京伝

    十返舎一九が活躍していた当時、江戸で一番有名な作家は山東京伝でした。 京伝に憧れて戯作者になった者も多く、一九を初めとして、「里見八犬伝」の曲亭馬琴も、「浮世風呂」の式亭三馬も、「自来也説話」の感和亭鬼武も皆そうです。 京伝は初め、絵師を目指して北尾重政の弟子になります。北尾政演の名で美人絵なども売... 続きをみる

  • 十返舎一九

    十返舎一九といえば、映画「写楽」に出ていた片岡鶴太郎が演じた少しお調子者の一九を思い浮かべますが、実際の一九は生真面目な男だったようです。 生まれは駿河の国で、父親は駿府の奉行所に勤めていた武士で、本名は重田幾五郎です。 20歳の頃、江戸に出て、23歳の頃には大坂に移ります。武士になる事をやめて浄瑠... 続きをみる

  • 喜多川月麿

    群馬県の草津温泉で一番古い旅館「日新館」のお食事処の飾り棚に三枚続きの浮世絵が飾ってあります。 江戸時代の日新館の座敷の様子を描いたもので、芸者風の女性が八人、水汲みの女性が一人、若旦那風の男が一人、風呂上りにくつろいでいます。煙草盆と水桶に「湯安」と書いてあり、当時、湯本安兵衛と名乗っていた日新館... 続きをみる

  • 鎌原観音堂

    鎌原村は浅間山の北麓にある山村ですが、信州街道と沓掛道が鎌原村で交わっていたため、江戸時代は交通の要衝として栄えていました。 信州街道は大戸通りとも呼ばれ、中山道の高崎の城下から分かれて、下室田、三ノ倉、大戸の関所を通り、本宿、須賀尾、万騎峠を越え、狩宿の関所を通って鎌原へと来ます。鎌原から大笹の関... 続きをみる

  • 信州追分宿の飯盛女

    飯盛女とは宿場にいた下級娼婦の事です。宿場女郎とも呼ばれます。 浅間山の南側を通る中山道には軽井沢宿、沓掛宿(中軽井沢)、追分宿と三つの宿場があって、どこにも飯盛女はいました。中でも、追分宿の飯盛女が一番、評判がよかったようです。 追分宿には60数軒の旅籠屋があって、飯盛女のいる宿屋は50軒近くあり... 続きをみる

  • 大戸の加部安左衛門

    上州吾妻郡大戸村に代々、加部安左衛門を名乗る上州一の分限者がいました。みんなから加部安(かべやす)と呼ばれて親しまれていました。 初代は富沢掃部といって、戦国時代に生きた武士だったようです。 三代目から加部姓を名乗ります。三代目から五代目までは八右衛門を名乗っていて、六代目から安左衛門を名乗っていま... 続きをみる

  • 「義経千本桜」のいがみの権太

    いがみは歪みの事で、心が歪んでいる悪者を意味します。今ではあまり聞きませんが、昔はワルガキの事を権太(ごんた)と呼んでいたようです。いがみの権太というのは、心のひねくれたワルガキという意味です。 今でも歌舞伎で上演される「義経千本桜」はもともとは人形浄瑠璃の名作です。1747年の11月に大坂の竹本座... 続きをみる

  • 葛飾北斎

    「富嶽三十六景」で有名な北斎は、一般に「葛飾北斎」の名で親しまれていますが、色々な画号を使っています。 幼い頃は時太郎、元服してからは鉄蔵が本名です。 20歳の頃、役者絵で有名だった勝川春章の門人となって、勝川春朗の画号を貰います。時々、群馬亭や白山人可候を名乗る時もありますが、36歳頃までは春朗を... 続きをみる

  • 天明三年の浅間山大噴火

    今から240年余り前の天明3年(1783)、群馬県と長野県の境にそびえる浅間山が大噴火を起こしました。 その年の4月9日(旧暦)から始まって、何度も大きな噴火を繰り返し、7月8日に大爆発しました。北麓の群馬県側にある鎌原村は一瞬のうちに土石流と火砕流に埋もれてしまい、466人の村人が生き埋めになりま... 続きをみる

  • 柴屋軒宗長

    連歌師の宗長は駿河の国、島田の刀鍛冶、五条義助の次男に生まれ、武士として今川義忠に仕えます。 19歳の時、駿河に来た宗祇と出会い、連歌師に憧れます。宗祇に弟子にしてくれと頼みますが、断られました。 一時は連歌師の道を諦めて、武士として生きていましたが、25歳の時に、駿河にやって来た伊勢早雲と出会って... 続きをみる

  • 種玉庵宗祇

    宗祇は連歌師の第一人者です。連歌会所奉行職を務め、連歌界の総元締のような立場にありました。 室町時代から戦国時代にかけて、武将の嗜みの一つに連歌がありました。 連歌とは数人が集まって句の詠み合いをする即興的な遊びで、まず、師匠格の人が発句と呼ばれる五・七・五の句を詠みます。次に、亭主格の人が脇句と呼... 続きをみる

  • 朝倉孝景

    朝倉孝景は越前守護の斯波氏の重臣の一人でした。 斯波氏が義敏と義廉で家督争いを始めると義廉方に付きます。 応仁の乱が始まると義敏は東軍となり、義廉は西軍となります。孝景は西軍の武将として京都で活躍します。ところが、文明3年(1471年)、孝景は突然、東軍に寝返ります。 将軍足利義政から密かに、東軍に... 続きをみる

  • 蓮如の妻たち

    蓮如の布教に大いに役立ったのが、子供たちです。男の子は各地に飛んで、寺の坊主となり、蓮如の教えを広めて門徒たちの中心になります。女の子は有力寺院に嫁いで教団の結束を固めます。 その子供たちの数は、驚く事に27人もいます。男の子が13人、女の子が14人です。本願寺の法主として妾が何人もいたのだろうと普... 続きをみる

  • 下間蓮崇

    下間蓮崇(しもつまれんそう)は蓮如上人が吉崎にいた頃の奏者です。奏者というのは取り次ぎ役で、蓮如の側近くに仕えていました。 越前の国に生まれた蓮崇は幼い頃に和田本覚寺の小僧になって心源と名乗ります。 15歳の時、本覚寺に来た如乗に連れられて加賀二俣の本泉寺に移ります。 25歳の時、本願寺の執事職を務... 続きをみる

  • 九十九茄子

    九十九(つくも)茄子は天下一の名物茶器といわれるお茶入れです。作物茄子、九十九髪茄子、付藻茄子と書かれる場合もあります。 南北朝時代の武将、佐々木道誉が室町幕府3代将軍足利義満に贈った唐物のお茶入れで、義満は大層気に入って常に身近に置いていたといいます。 その後、代々将軍家に伝わりましたが、8代将軍... 続きをみる

  • 信長の夢

    天正十年(1582年)の5月、絢爛豪華な安土城内で織田信長は悪夢にうなされます。 毎夜、同じ夢を見て、汗びっしょりになって真夜中に目を覚まします。 自分が何者かに殺され、子供たちも妻や側室たちも皆、無残に殺されて、天下を奪われる夢です。夢の中では、自分を殺す者が何者かわかって、くそ、おぬしなどにやら... 続きをみる

  • 京都の南蛮寺

    永禄2年(1559年)、九州から京都に上ったヴィレラ司祭はその年の末、革の棚に住んでいた後家さんの世話になり、翌年の1月は玉倉町に移り、さらに四条烏丸の酒屋に移ります。 仏教の盛んな京都でひどい目に会いながらも、何とか、将軍足利義輝に会う事ができ、砂時計を土産に布教の許可を得ます。6月に四条坊門姥柳... 続きをみる

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