8月廿七日、菅江真澄は古川の黒沢家を訪ねた後、松の木の金勢大明神わきから鹿角街道に出て、鶴田・鉄砲を経由して花輪へ向かった。「けふのせばぬの」には次のように記している。 「菅江真澄の標柱」 おもむろに古川村を出て、松の木村というところへ来ると、石づくりのおばしかた(陽形)を並べたお堂がある。このよう... 続きをみる
菅江真澄のムラゴンブログ
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花輪線十和田南駅近くに稲荷神社がある。神社周辺が公園となっており、その中に錦木塚がある。塚の脇には真澄が錦に描いた杉の大木がみられる。 「稲荷神社」 天明5年8月廿七日、菅江真澄は神田村から毛布の渡によって向こう岸の室田村松の木に着いた。花輪の村の反対方向へ来満道を1000メートル入ると錦木塚であっ... 続きをみる
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天明5年8月26日、松山村を通り、紀の国坂を越えた菅江真澄はやがて神田村に着いた。神田村は鹿角街道にそう駅場の一つである。米代川の川端にある神田村はまた川向かい室田村松の木に通じる舟渡しの場でもあった。 「神田の舟渡跡(菅江真澄の道)の標柱」 けふのせば布には 新田(神田)という村に到着した。川が大... 続きをみる
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天明5年(1785)4月29日で「小野のふるさと」は終わっている。次の日記は8月3日に津軽との境界、本蓮寺坂を下るところから始まる「外が浜風」である。5月から7月までの3か月、菅江真澄は何をしていたのだろうか。 粉本稿に記録によると菅江真澄が歩いたコースが推定ではあるがわかっている。 湯沢➡横手➡角... 続きをみる
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天明5年、8月26日、菅江真澄は境目の土深井村を過ぎ、降りだしそうな空模様を気にしながら、松山村へ足を早めていた。 「紀の国坂の標柱」 松山村には境目番所が置かれ、駅場のあわただしいさもあったが、菅江真澄はひたすら先を急ぐかのように通り過ぎ、まもなく紀の国坂へとさしかかった。 「菅江真澄の道の標柱」... 続きをみる
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文政4年(1821)3月5日、菅江真澄は3度目の鹿角に入った。 秋田領十二所をたって沢尻村から土深井へは入った時、「上津野の花(筆のしらがみ)」は次のように述べている。 「土深井駅前のバス停」 右手の山の上に稲荷のお社があって、鳥居も木々の間からみえる。境川といわれる小さな流れを渡ると、陸奥国鹿角郡... 続きをみる
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南部藩土深井は藩境の村であった。土深井駅前のバス停付近に菅江真澄の標柱と南部藩・秋田藩境の標柱が設置されている。その付近は現在、大館市と鹿角市の境界となっている。 「土深井」 天明5年(1785)8月26日、秋田領沢尻の宿を立ち、この村に入る菅江真澄にとって一昨年旅に出てから初めての南部領であった。... 続きをみる
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天明4年(1795年)4月14日、菅江真澄は柳田村を出発し、小野小町の旧跡と横堀を経由し院内に到着した。そして桂川で和歌を詠みそこで一泊した。 翌日には院内銀山を訪れ、町や鉱山を見学して2首の和歌を詠み、院内に下った。 和歌の名人といわれた院内城代大山氏の葬式を見てさらに和歌を詠み、その日に柳田村へ... 続きをみる
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天明5年1月10日、菅江真澄は湯沢市成沢から湯沢市岩崎へ移動した。 岩崎というところに行こうと、鳴澤という村の端に、雪を分けて流れる水があれば、 きのふけふ 山路は春に なる澤の 水こそみつれ 四方の長閑さ 「湯沢市成沢」 やがて岩崎に到って、石川氏家に泊る。今日は初庚申の日だといって、火焚き屋(台... 続きをみる
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天明4年1月4日、菅江真澄は湯沢市柳田から湯沢市町中へ移動し、そこで歌を詠んだ。 たのしさよ千代もかはらずくみかはす湯沢の里の盞 酒を飲まないならこの湯澤についての歌を詠みなさい。さもないとすぐ飲ませますよ。 現在、湯沢市役所のほぼ向いの力水公園には真澄のこの歌を刻んだ歌碑が建てられている。 湯沢城... 続きをみる
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天明4年、菅江真澄が柳田から湯沢を訪れた際に、湯沢は昔、山畑かた湯が出たから名付けられた由来も書き留めている。今日の湯沢には基幹産業として農業、酒造業、曲げ木工業などがみられる。これらもまた長い歴史をえて現在に伝わるもので、菅江真澄が江戸時代に記録したのは大事な跡付けともされる。 菅江真澄は犬自慢を... 続きをみる
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天明4年、田茂沢(たむろさわ)に入った菅江真澄は刑罰の柱を見た。この盗人を懲らしめる刑罰の柱が印象にあるのか、次に西馬音内で菅江真澄が目にして記したのは鮭の頭を盗んだ人であった。 西馬音内ではまっさきに市をみた。菅江真澄が見たものはこの市で盗人と女主人とのやり取りであった。交わされる言葉に菅江真澄は... 続きをみる
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天明4年10月、笹子川(じねごかわ)にかけられた橋を人の助けをかりながら、かろうじて渡った菅江真澄はここから山越えをして雄勝郡へ抜ける八木山越えの道を選んだ。 この山越えについて菅江真澄は 「木樵りにたまに出会うほかは通るものいない山道を雪に難渋しながら進んだ」 と記録した。 この山境にはかつての生... 続きをみる
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天明4年10月6日に矢島を発った菅江真澄は矢島街道を南へ下り伏見に至る。 伏見では前日から雨で子吉川の水かさが増し、向こうの岸に渡れない。7日は舟は出ず、みぞれが雪に変わる天気となり8日は家の軒の高さまで積もった。9日の日記には屋根の上から落ちる雪がまるで地震のように振動することに驚いたと記した。 ... 続きをみる
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天明4年10月2日、菅江真澄は矢島の城下町に宿を取った。 矢島は平安時代のはじめに鳥海山の登山口として修験山伏がひらいたといわれ、菅江真澄が来たころは、矢島藩1万石の城下町として栄えていた。 菅江真澄は矢島で3泊しハタハタをはじめ様々な魚を売る市を見ていた。 ハタハタといえば、八峰町や男鹿市が有名だ... 続きをみる
- # 菅江真澄
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天明4年10月、菅江真澄は小菅野から下って再び子吉川を渡り、吉沢に入った。 「吉沢歩道橋のたもとにある標柱」 菅江真澄は吉沢でも和歌を一首詠んでいる。 行かひはまさ木のかつらくりかへし引手あまたにわたす舟人(真澄31歳) 小板戸から川辺を通り、矢島へ向かう道は子吉川の流れの変化などにより変遷があった... 続きをみる
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平安時代の歌人、小野小町に想いを寄せた深草少将が小町へ贈った芍薬を植えた場所とされ、『芍薬塚』と呼ばれた。 小野小町生誕の地と伝えられる里の人々が、小町が愛した芍薬をこの場所に植え、いにしえの小町を偲んでいたことから芍薬塚と呼ばれていたが、小町を奉る小町堂が建立されたころから小町塚と言われるようにな... 続きをみる
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天明4年(1784年)11月、菅江真澄は西馬音内に滞在した後、雄物川の貝沢の渡しを通って現在の湯沢市柳田へ到着した。 現在の柳田は60軒余りの集落で、湯沢市の西部に位置し、雄物川を挟んで羽後町貝沢集落と向き合っている。 菅江真澄は湯沢市と羽後町の境界である雄物川の貝沢の渡しを通って湯沢に入った。現在... 続きをみる
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天明4年10月、菅江真澄は滞在した西馬音内を出発し、杉宮の三輪神社に詣でた。 湯沢に至る街道も通り大きな集落が形成されている。ここは杉が鬱蒼(うっそう)としていると記して、始まりは三輪の山より一夜のうちに飛んできた杉に因み、それが大林となったというのだ。 現在、三輪神社の杉林は現存している。 菅江真... 続きをみる
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天明4年10月に入り、菅江真澄は矢島街道から立井地、黒沢、明法寺を通り、滝沢川(子吉川)を通って前郷に一泊した。 翌日、朝早く出発したが天気が良い。小菅野の道を通るにあたり集落を遠くに見て和歌を一首詠んだ。 山陰に一すぢ見ゆるかよいぢや 小菅の里の冬かれの 小菅野は標高約400メートルの大地に形成さ... 続きをみる
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天明4年、菅江真澄は本荘では不運にも火事に遭遇し道を確認しながら不安な思いで旅をしていた。結局、進むことができず本荘の入口付近の宿で一泊した。そして砂子沢を越えて矢島街道に入った菅江真澄は埋田から眺める山々の紅葉を見て宮内を過ぎ、八幡神社の隣を通って旧由利町に入った。南福田をへて立井地集落の鮎川を渡... 続きをみる
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天明4年、菅江真澄は象潟で島めぐりを終えた後、金浦町の飛集落を訪れ、飛の地名の由来とそこの塩竈神社に興味を覚えて由来を記した。 仁賀保町にある芹田に入ると白雪川を渡し舟でで越えた菅江真澄は日本海沿岸に伸びる北国街道さらに北上し由利地方を代表する二万石の城下町・本荘を目指した。 菅江真澄は由利本荘市西... 続きをみる
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蚶満寺(かんまん)は仁寿3年(西暦853年)に慈覚大師により、天台宗の寺院として開山されたと伝わる。のちに真言宗を経て、江戸時代に曹洞宗へ改宗し現在へ至る。 象潟は蚶(きさ)という貝が多い所から付いた地名で干(蚶)満寺もそれにちなむものと推測できる。 1689(元禄2)年に『奥の細道』途中の松尾芭蕉... 続きをみる
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象潟での二日目の旅は雨風が止まなかったものの、宿でじっとしてもいられず、磯部を歩き回った。三日目には中橋から船に乗り潟巡りに出かけた。 菅江真澄は船で島々の合間を縫って鳥海山を眺めていた。その時に詠んだ歌がある。 「大平からあおいだ鳥海山は駿河の田子の浦からみた富士山のようで見事であった」 田子の浦... 続きをみる
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にかほ市小砂川には菅江真澄が宿泊した「磯家」跡がある。 宿で夜更けに雷だと思った音が、「くだり穴」という岩の空洞に荒波が入る音であったと記録が残っている。 菅江真澄が泊まった家は今の大磯原のくだり穴の近くにあったようだ。 「くだり穴」を探したが残念ながら見つからなかった。どこにあるか地元の住民にも聞... 続きをみる
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菅江真澄が三崎峠を越えて初めて秋田の地に足を踏み入れたのは、天明4年(1784)の9月25日であった。故郷の三河(愛知県)を出て2年目、31歳の時である。 三崎山は羽州浜街道の難所の一つとされたところで、大石を敷き詰めた旧道がうっそうとした林の中に今も残っている。 松尾芭蕉もこの旧街道を通っていて、... 続きをみる
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菅江真澄が本洗馬(塩尻市)を拠点としていた天明3年の日記は「伊那の中路」だが、更級にある姨捨山の月見に出かけた8日間の記録は「わがこころ」と知られている。 「姨捨駅から見る長野盆地」 姨捨は古くから月見の名所として知られた場所である。 長野県には標高1252mの冠着山(かむりきやま)あるが、別名で姨... 続きをみる
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本洗馬歴史の里資料館は江戸時代の紀行家、菅江真澄や医学者で結核の治療や予防に貢献した熊谷台蔵博士などについての展示がある。 本洗馬歴史の里の説明板。本洗馬の歴史を振り返るうえで菅江真澄は欠かせない存在だと感じた。 入館後、職員の方が菅江真澄について詳しく説明してくれた。 菅江真澄(当時は白井秀雄)が... 続きをみる
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菅江真澄が北への旅に出て約1年間は長野県塩尻市にある洗馬を拠点としていた。 今回は塩尻市内にある長興寺を行ってみた。菅江真澄は長興寺の住職である洞月上人と交流していた。 門の横には柳田国男と折口信夫の歌碑がある。 歌碑の解説がその横の石に刻み込まれている。 柳田国男の短歌は昭和5年にこの寺で開かれた... 続きをみる
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豊橋市には近世、吉田という地名であった。江戸時代には吉田城の城下町として栄え、東海道の宿場町として、吉田宿が設置された。 (吉田宿本陣跡) 菅江真澄はこの時期の吉田で植田義方から国学を学んでいた。国学は日本の古代の文献を考証し、そこから日本古代の精神を求めていく学問である。万葉集の分析からこれを実践... 続きをみる
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岡崎市にある伝馬町通りには菅江真澄が交流していた国分家があった。ここでは市隠亭(しいんてい)という国分家の書斎に集う人々と和歌や漢字を学んでいた。 (伝馬通り) ※市隠亭は国分伯機が自宅脇に設けた書斎 (市隠亭についての石像) 国分伯機の長男の妻は植田義方の実妹であり、その関係で菅江真澄も国分家に出... 続きをみる
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