• 江戸を見れば92  芭蕉51歳  此の道や

     1694年元禄7年甲戌(きのえいぬ)4月、「奥の細道」の素龍清書本成る。  むめがゝにのつと日の出る山路かな  (夜の明けぬうちに山路を歩く。どこからか梅の香が、早春の夜明け身も心も引き締ま   る。朝日が雲を押し分けてのっと出た。) 家はみな杖にしら髪(が)の墓参(はかまゐり)  (郷里の盆に帰って墓参りをした。一族親族そろって墓参り。みんな歳を取って白髪に   なり杖をついているよ。) 秋深

  • 江戸を見れば91  芭蕉50歳  物いへば

     1693年元禄6年癸酉(みずのととり)8月10日、西鶴52歳で没。同27日に門弟の嵐蘭が47歳で没。甥の桃印が33歳で芭蕉庵にて死去。  座右之銘、人の短をいふ事なかれ、己が長をとく事なかれ 物いへば唇寒し穐(あき)の風  (この句をつぶやいては、座右の銘を思い出し苦い反省の繰り返しであるよ。) 夕顔や酔(よう)てかほ出す窓の穴  (暑い夏、やっと夕暮れようとしている。晩酌に酔うて小窓から顔を出

  • 江戸を見れば90  芭蕉49歳  行く春や

     1692年元禄5年壬申(みずのえさる) 5月中旬、新築なった芭蕉庵に移り住む。「奥の細道」の推敲が順調にすすむ。 行春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)  (行く春の愁い。人間だけではなく、天地間の万物が泣き、涙を流すようである。) 両の手に桃とさくらや草の餅  (私の庵の庭には桃も桜もある。門人には其角と嵐雪がいる。好物である草餅を食べ    る。これ以上の幸せがあろうか。) 田一枚植て立去る

  • 江戸を見れば89  芭蕉48歳  後3年の生き様を

     1691年元禄4年辛未(かのとひつじ) 46歳で奥の細道の旅を終えて、51歳で亡くなるまで「奥の細道」を後世に残る文学作品に仕上げるために全力を尽くした。  先ず、テーマを没頭に持っていきこの主題を生かすべく事実の取捨選択や改変を行い全体の構成も考え抜いた。 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」の主題が生かされ文学作品としての「奥の細道」が完成した。  この年に「嵯峨日記」や「笈の

  • 江戸を見れば88  芭蕉47歳  捨て子を厳禁

     1690年元禄3年庚午(かのえうま)再び「捨て子厳禁令」を出す。もし養育できない時は、奉公人はその主人に、天領では代官部下の手付・手代へ私領や町では名主・五人組へその理由を申告すること。理由が認められればその地で養育すること。違反者は厳罰。 芭 蕉 歳旦吟   薦(こも)を着て誰人(だれびと)います花のはる (菰をかぶった乞食。もしや元は身分ある方かも。春着まぶしい桜の下。) 木(こ)のもとに汁

  • 江戸を見れば87  芭蕉46歳 「奥の細道」成稿

     1689年元禄2年己巳(つちのとみ)2月に綱吉は新たに奥詰衆を置き側近の諮問に応えさせた。これは外様大名から選ぶ。譜代、外様の区別なく有能な人材を幕政に登用した。側近政治の温床になる。 芭蕉 歳旦吟 元日は田毎の日こそこひしけれ  (更科の田毎の月のすばらしさ。初日の映る「田毎の日」はどんなものであろう。更科   の旅が胸にせまるよ。)  3月初旬、みちのく行脚に出立。先ず、杉風(さんぷう)の別

  • 江戸を見れば86  芭蕉45歳 西鶴「日本永代蔵」刊行

     1688年貞享5年戊辰(つちのえたつ)元禄元年(9月30日) 側用人の人数が老中より多くなり将軍の側近として御用部屋を持つようになった。 11月に柳沢保明・南部直政が側用人となちやがて保明は実権を握るようになった。老中の諮問を待たずに将軍が直接、側用人に命じ執行させた。 歳旦吟  二日にもぬかりはせじな花の春        (宵の年に飲み過ぎた。2日の朝、初春の気分を味わうことにしよう。) 二月

  • 江戸を見れば85  芭蕉44歳  生類憐みの令

     1687年貞享4年丁卯(ひのとう)正月27日に綱吉は生類憐みの令を出した。綱吉の仏教信仰や儒教意識が基盤となっていたが、仏教の狂信者である母桂昌院の示唆が大きい力であったともいう。  今では考えられないことで死罪や流罪が簡単に行われた。  家綱の命日に吹き矢で燕を射たもの二人を死罪と流罪にする。 芭蕉44歳の句から5句を紹介 花にあそぶ虻なくらひそ友雀(ともすずめ)   芭  蕉  無心に花にあ

  • つぶやき 99  芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で大変化

     41歳の8月中旬に門人苗村千里(ちり)を同行して野ざらし紀行の旅に出た。  旅のはじめに、富士川のほとりにさしかかった時、三つばかりの捨て子がいかにも哀れげな声で泣いている。芭蕉はこれにどのように対応したのか。この体験が芭蕉の生き方に大きな影響を与えたと考える。 『この小萩を吹く冷たい秋風に、もろい命の今宵のうちに散るか、あすはしおれるだろうかと、ひとしお哀れで、たもとから食べ物を取り出し、投げ

  • 江戸を見れば84  芭蕉43歳  井原西鶴好色五人女刊行

     1686年貞享3年丙寅(ひのえとら)9月に旗本奴の集団の大小の神祇組の200余人を追補し、その首領11人を斬罪に処した。無頼の少年たちが模倣して治安を阻害するようになったため。  いつの世も同じような手の付けられない若者の集団が現れて来る。  西鶴、好色五人女に続いて、好色一代男も刊行。近松門左衛門は「出世景清」大阪竹本座で初演。町人の間では雑排(遊戯的な俳諧)の「前句付け・冠付け」が流行る。

  • 江戸を見れば83  芭蕉42歳 芭蕉の俳諧町人の間で流行

     1685年貞享2年乙丑(きのとうし)大奥では綱吉の母桂昌院が権勢をふるい、綱吉は側用人を増員して幕政のゆるみが現れてきた。  芭蕉は前年の8月中旬に「野ざらし紀行」の旅に出て、9月8日に伊賀上野に着いて数日逗留して、大和・吉野・山城を経て月末に美濃大垣に至る。初冬に熱田に入り、名古屋へ。12月25日に伊賀上野に帰郷して越年する。  この後、名古屋から木曽路、甲州路をへて月末に江戸に帰着する。9か

  • 江戸を見れば82  芭蕉41歳 大老堀田正俊刺殺される

     1684年天和4年甲子(きのえね)武断的傾向もった堀田正俊は文治的立場をとる綱吉と相容れず多くの批判を受けていた。  8月に江戸城中にて従兄弟の若年寄の稲葉正休の私怨のために刺殺され、正休もその場で惨殺される。  この事件の後は大老・老中の存在は形式的となり、綱吉は側用人を通して文治的政策を推進していった。時の権力者として側用人の存在が続く。  8月中旬、門人の苗村千里(ちり)を同行して「野ざら

  • 江戸を見れば81  芭蕉40歳   実母郷里で没

     1683年天和3年癸亥(みずのとい)6月20日に実母が郷里で死去。享年不詳。愛染院に葬る。知友や門人らの喜捨によって芭蕉庵が再建され新芭蕉庵に入る。  八百屋お七を火刑に処する。京の大経師(だいきょうじは、経巻・仏画などを表具した経師の長で、朝廷の御用をつとめたもの。)の妻おさんと手代茂兵衛が密通で処刑される。井原西鶴や近松門左衛門の浮世草子や浄瑠璃に取り上げられる。  芭蕉40歳の2句 清く聞

  • 江戸を見れば80   芭蕉39歳  芭蕉庵類焼

     1682年天和2年壬戌(みずのえいぬ)3月に西山宗因(78歳)没、9月に井原西鶴が「好色一代男」を刊行する。西鶴41歳の処女作で「愛欲」をテーマに愛欲と開放と自由を追求する作品を立て続けに発表し浮世草子の作者としての地位を固める。  浮世草子は小説の一種で約80年間上方を中心に行われた町人文学である。  この年の江戸の大火が後の「八百屋お七」の好色五人女の材料となる。  芭蕉の俳諧と紀行文。それ

  • 江戸を見れば79  芭蕉38歳 側用人の政治介入の始まり

     1681年延宝9年辛酉(かのととり)天和元年(9月29日)5代将軍綱吉は30代の壮年で文治政策の支持者であった。12月に彼の擁立に功のあった老中堀田正俊を大老に、側衆牧野成貞を側用人として政治の世界に起用。側用人は老中の次席で近習出頭ともいい将軍と老中の連絡係であった。  牧野成貞の禄高はわずか2000石であったのが側用人就任後は下総関宿7万3千石の大名となる。  37歳で宗匠の生活から引退し、

  • 江戸を見れば78  芭蕉37歳 4代将軍家綱没

     1680年延宝8年庚申(かのえさる)5月8日に家綱が40歳で病没。一人権力をほしいままにしていた大老酒井忠清は5代将軍に京から有栖川宮幸仁親王を迎えようとした。  しかし、水戸藩主徳川光圀や堀田正俊の反対にあい実現しなかった。予定通りに弟の舘林藩主綱吉(30代の壮年)が第5代将軍についた。  この年を最後に大老として22年間権力の座にいた酒井忠清は隠居させられて、忠清の独裁に終止符が打たれた。

  • 江戸を見れば77  芭蕉36歳 芥川龍之介36歳で自死

     1679年延宝7年己未(つちのとひつじ)芭蕉36歳と同じ歳に芥川龍之介が自殺した。芭蕉は36歳の時にはまだ蕉風俳諧も確立していない時であるが後の龍之介は蕉風俳諧を始め夏目漱石や正岡子規の影響を受けて文学としての俳句を身につけていた。  本名は芥川龍之介、俳号は我鬼、号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)。 「我鬼」の俳句5句、何の解説もいらないそのままの句を紹介。     青蛙 おのれもペンキ

  • 江戸を見れば76  芭蕉35歳 「桃青三百韻付両吟二百韻」刊行

     1678年延宝6年戊午(つちのえうま)芭蕉、桃青の俳号になって積極的に本を刊行。「江戸三吟」を京都の本屋寺田重徳から刊行。すぐに、江戸の本屋山内長七から「桃青三百韻付両吟二百韻」を刊行。  着実に宗匠としての地位を確立していく。  蕉風俳諧の確立までにはまだしばらくを要する。蕉風俳諧の理念としてよく言われる「不易流行」「わび」「さび」「しをり」「軽み」などの中でも「軽み」はこの辺りから談林風とし

  • 江戸を見れば75  芭蕉34歳 水道工事の事務を担当

     1677年延宝5年丁巳(ひのとみ) 本年より向こう4年間江戸小石川の水道工事に携わる。事務の仕事のようである。  京都より東下の伊藤信徳を迎え、信徳、信章、桃青で「三吟百韻二巻」を興行する。 芭蕉(当時は桃青)は、俳諧宗匠として立机(りっき)したと考えられる。立机とは、俳諧師が宗匠となること。  34歳の句を3句紹介  あら何ともなきやきのふは過ぎてふくと汁   桃 青  ふぐ汁を食って、あたり

  • 花かるた 色は匂へ 「き」の2 菊(秋)

        菊の香や奈良には古き佛達     芭  蕉                季節の花300より    菊を切る跡まばらにもなかりけり  其  角    黄菊白菊其外の名は無くもがな   嵐  雪                季節の花300より      手燭して色失へる黄菊かな    蕪  村                 季節の花300より  花言葉は 「思慮深い」(菊)「 真実、元気

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