• 江戸を見れば 65 芭蕉24歳  幕府は巡察使を全国に派遣

     1667年寛文7年丁未(ひのとひつじ) 前年の寛文6年4月25日に蝉吟(藤堂良忠)が、25歳で病没。芭蕉はほどなく致仕(ちし)、職を辞して兄半左エ門方に身を寄せ、時折上洛して季吟らに交わることがあったらしい。この年(寛文6年)に良忠の遺子良長が誕生。後に俳号探丸となる。  芭蕉24歳の2句   初瀬にて人々花みけるに うかれける人や初瀬の山桜   宗 房  参考、初瀬は奈良県桜井市の名刹長谷寺の

  • 江戸を見れば 64 芭蕉23歳   「左様せい様」

     1666年寛文6年丙午(ひのえうま) この年酒井忠清は老中から大老になった。将軍家綱公は生まれながらの温和柔弱の性質で万事にわたり「左様せい」と政務を執行する最高機関にお任せであった。  文治政治家といわれる大老酒井忠清の独裁時代に入る。  芭蕉23歳の句の中から3句を紹介しよう。 年は人にとらせていつも若夷(わかえびす)   宗 房  正月になると売りに来る若夷のお札の姿はいつも変わらない。き

  • 江戸を見れば 63 芭蕉22歳   茶屋対吉原の女争奪戦

     1665年寛文5年乙巳(きのとみ)幕府は武士層の養子制について制約を緩和してきたが、家康の50年忌の法会にあたって、人質として証人を呈出することをやめることにした。  茶屋と吉原が女の奪い合いで流血事件を起こす。茶屋の抱女を吉原が奪い、それをまた茶屋側が奪い返すという事件が起こった。幕府の支持のもとに吉原側が私娼取り締まりに参加することによってことを収めた。  この年、藤堂新七郎家の嗣子、蝉吟(

  • 江戸を見れば 62 芭蕉21歳  幕政運営の効率化が始まる

     1664年寛文4年甲辰(きのえたつ)政務の案件を連署していたのを小事の案件については月番老中で処理できるように処置する。公家、門跡、一門、参勤交代などの案件は4,5名の老中で構成される最高機関の全員で連署すること。  姥桜(うばざくら)さくや老後の思い出(いで)   宗 房  見事に咲いた姥桜よ。老後の名誉に一花さかせようというのか。季語は「姥桜」で春。  姥桜はひがん桜の一種で山桜とちがい落下

  • 江戸を見れば 61  芭蕉20歳  新武家諸法度追加

     1663年寛文3年癸卯(みずのとう)5月に新「武家諸法度」が出され3か条が追加された。公家との縁組は奉行所に届け出て指示を受けること。キリシタンの禁教、不幸者の処罰。そして殉死(追腹)が禁止された。 月ぞしるべこなたへ入(い)らせ旅の宿   宗 房  明るい月を道案内にどうぞ私どもの宿にお泊り下さい。季語は月で秋。  当時、謡曲を取り入れた句が流行した。若き芭蕉(宗房)も流行を取り入れて時代をよ

  • 江戸川柳 色は匂へ  「た」の2 棚

    人をばおろし我が事は棚へ上げ   よくみる光景だ。そんなもんだ。  おろす=こきおろす、非難する。 女房を物さしにして棚をつり    仕事場だもんね。ご苦労さん。 大だわけ棚をねめつけ瘤へ唾    この野郎、いたのなんのって。 棚釣でわざとあたまをふって見る  大丈夫だ。 学問が棚へ上って声がはり     昔の坊やはもういない。

  • 江戸を見れば 60 芭蕉19歳  記録に残る最古の作品

     1662年寛文2年壬寅(みずのえとら)  春やこし年や行けん小晦日(こつごもり)   宗 房      季語は小晦日(師走29日)で冬。  今日はまだ小晦日なのに立春となった。こんな場合でも春が来たといってよいのであろうか。それとも年が去ったというべきか。暦の上でもまれにある年内立春をとらえた一句である。  実に素直に伝統を踏まえた一句である。  俳諧の伝統として過去の作品を素材にいわゆる本歌取

  • 江戸を見れば 59 鎖国のもとで特権貿易  芭蕉18歳

     1661年万治4年辛丑(かのとうし)4月25日寛文元年の3月3日に例年通りに長崎のオランダ商館長が参府して将軍に謁見した。その時に新しい条項が取り決められた。  目的は鎖国のもとでも幕府が特権貿易商人を通じて利益を管理・統制することが目的であった。  11月には見台所(将軍正妻)の費用を500両増額し、年額1000両とする。  12月には、見物の芝居物は堺・葺屋・木挽3町に限定し、町中での勧進相

  • 江戸を見れば 58 佐倉藩主幕政批判  芭蕉17歳

     1660年万治3年庚子(かのえね)9月28日に佐倉藩主堀田正信は、老中松平信綱らの政治姿勢を批判して上書を提出し所領の返上を申し出る。それほどに天下の人民は疲弊し武士は困窮していた。  藩主堀田正信は11月に改易される。  芭蕉は仙気(せんき)という持病を持っていた。下腹部に発作的に激痛が繰り返し起こる。癪持ち。現代で言うならば胆石症や尿道結石症があったのではなかろうかと思われる。  芭蕉が仕え

  • 江戸を見れば 57 武断から文治主義への転換 芭蕉16歳

     1659年万治2年己亥(つちのとい)江戸城本丸は5月15日に造立を経て、8月3日に竣工し9月5日に将軍家綱は西丸から転居した。この本丸は天守閣がなかった。時代の流れを象徴したものである。  その一方で、賄い方や奥坊主・大奥などについての規制は厳しいものであった。 奥坊主=将軍に茶・湯水の給仕、茶室での茶湯とその清掃、奥の勝手・茶部屋・露地部屋・数寄屋などに居り火の番もした。 数寄屋=茶室。茶席・

  • 江戸川柳 色は匂へ  「よ」の2 嫁

    御みくじで貰った嫁もにくがられ    神も仏もなんのその。 中のよい嫁はお経をよみならひ     えらかもんじゃ。結構結構。 永い日も二つとできぬ嫁の髪      ポニーテールにしたら。 湯殿から忘れた時分嫁は出る      念には念を入れますとも。 しかってもしかっても嫁うすぎなり   わかる。わかる。現役ですぞ。

  • 江戸を見れば 56 大村藩キリシタン処刑つづく  芭蕉15歳

    1658年明暦4年戊戌(つちのえいぬ)万治元年(7月23日)   年の明暦3年に大村藩ではキリシタンを90人逮捕してその内の56人を島原で処刑した。  つづいて、本年も603人逮捕して処刑をしている。キリシタン禁制の高札を出して、取り締まりを厳しくしている。  大村藩とはどんな藩であったのか、外様大名であった。  大村喜前ははじめ、ドン・サンチョという洗礼名を持つキリシタンであったが、慶長7年(1

  • 江戸を見れば 55  旗本奴が町奴を殺害 芭蕉14歳

     1657年明暦3丁酉(ひのととり)7月、水野十郎左衛門茂之が幡随院長兵衛を殺害する。  町奴の長兵衛が、水野の旗本奴の屋敷へやってきて遊里へ誘ったが、水野が今日は都合が悪いと言って断ったのに立腹して、自分の勇気が恐ろしいから断ったのだと罵倒し無礼なふるまいをした。  水野も怒って長兵衛を討ち捨てた。  町奴の強きをくじき弱きを助けるという侠気が武士に対抗するという庶民意識に支持されて旗本奴との対

  • 江戸を見れば 54  貧富の格差が広がる

     1656年明暦2年丙申(ひのえさる)消費生活の向上に伴い貧富の格差が著しくなってきたのがこの時代である。  手を変え品を変えて、禁止令を出したり、5人組を組織したりして取り締まりを厳しくしても幕府の思うようにはいかなくなった。  2月には、手拭で頬被りしたり、覆面をしたりすることをまず禁止。これは盗賊の横行に対する処置、美麗な服装や派手な生活の風潮を禁止。かぶき者や太い緒のかぶりものを逮捕する。

  • 江戸川柳 色は匂へ  「か」の2 蚊(か)

    忍ぶ夜の蚊はたたかれてそっと死に   粋だね。えらい。 じっとして居なとひたいの蚊を殺し   強くも打たれんしなあ。 手にとまる蚊を吹きながら御看経    経を唱えながらの殺生ですぞ。 御看経(おかんき)=禅宗などで、声を出さないで経文を読むこと。声を出して経文を読むことは読経。 内陣の御神酒にしんと昼間の蚊     神妙にしてやがる。 内陣=神社の本殿や寺院の本堂で、神体または本尊を安置してある

  • 江戸川柳 色は匂へ  「わ」の2 若後家(わかごけ)

    若後家のふしゃうぶしゃうに子にまよひ   子のために生きるか、それと                      も。 若後家の剃りたいなどとむごがらせ   尼に、もったいない。 若い身で安請合の後家を立て      意地を捨てるべきか、女を捨てる                    べきか。 若後家のたよりになってやりたがり   ごもっとも、ごもっとも。

  • 江戸を見れば 53  消費生活の向上と貨幣経済の発展

    1655年承応4年乙未(きのとひつじ)明暦元年(4月13日)  城下町での家臣団の消費生活の向上に伴い江戸のインフラ整備や貨幣経済の改革が進行していった。  消火用の堀井戸の準備と水桶(防火用水)の完備を急いだ。1町の両側に8つずつを原則に堀井戸を設け、商売の妨げになるときは蓋をすること。水桶も井戸と同じように蓋をして常時満水の水を貯えることを整備した。  江戸の生活の発展に伴い膨大なゴミがでてそ

  • 江戸川柳 色は匂へ  「を・お」の2 大一座(おおいちざ)

    施主はまだ泣いてゐるのに大一座   よからぬ相談はすぐにやる。  大一座=川柳では多人数で女郎屋に登楼することをいう。葬式帰りや花見や夕涼みのくずれが多い。 町内のぎりさへすむと大一座   なにはともあれ義理とふんどしは。 大一座無理往生は数珠をもち   年寄りの冷や水、ポックリ行くかも。 その数珠はしまってくれと土手で言い  爺ちゃん、それはしまってよ。 人といふものは知れぬと大一座   集団心

  • 花林糖売り 唐人飴売り 女飴売り

     天保六、七年(1835、36)ころから夜、市中を「かりんとう深川名物かりんとう」と声を高くして何の所作もなく売り歩いてきた。子どもがちょうだいと言うと、八文から二十四文ずつの値に従って袋に入れて与える。かりんを細く切って黒砂糖で煮たようなもので、昼に見かけることは少なく、夜だけ売り歩いていたようである。  右側は志るこ、おしるこ売りもあったようです。  見たところ面白くもないものだが、ただ点した

  • 江戸川柳 色は匂へ  「る」の2 留 守(るす)

    憎いこと辛子すってて留守と言い   あの音は辛子味噌、さては。  辛子する=辛子をすり鉢に入れて摺るのは辛子味噌の場合である。初鰹には辛子味噌が定番。 留守たのむ人へ枕と太平記    わかるわかる。退屈だもんね。 女房がるすで流しに椀だらけ   男所帯にウジだな。

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