• 広島とグラウンド・ゼロ(再掲)

    私がはじめて広島平和記念公園を訪れたのは、もう30年ほども前でしょうか。 そこには、こんな碑がありました。 「安らかに眠ってください。 過ちは繰り返しませぬから」 かつて、この碑文をめぐって「主語がない。誰が過ちを犯したのか、誰が誤っているのかをはっきりさせるべきだ。」という議論があったのを思い出しました。  はじめてこの碑の前に立ったときに、なぜ主語がないのか、はっきりとわかりました。 この碑の

  • 黙して、神に委ねる

    「(イエス・キリストは) ののしられても、 ののしり返さず、苦しめられても、 おどすことをせず、 正しくさばかれる方(神)にお任せになりました。」 (聖書 Ⅰペテロ2:23) 私は、このイエス・キリストに倣う。 正しい方、神に委ねる。それが私が信仰だ。

  • 学びの力

     朝日新聞2009年8月16日朝刊4面にこんな記事がありました。 ケニアの89歳のおじいさんが胃がんでなくなりました。世界最高齢の小学生として知られる方です。幼いころから内戦の戦士として育ち、貧しさもあって学べなかった。84歳で地元の小学校に入学を果たし、「死ぬまで勉強する。」と喜んだそうです。学ぶ目的は、お金の計算ができること、聖書を読むことだったそうです。  私たちは学ぶことで何を得るのか。

  • きっと大丈夫。

    私がこんな私でも、神は私を愛された。 あなたがどうであれ、 神はあなたを愛される。 静かに神を見上げよう。きっと大丈夫だ。 「わたしたちが神を愛したのではなく、 神がわたしたちを愛し…」 (聖書 Ⅰヨハネ4:10)

  • 死にたいときこそ生きてみよう!

    こんなことを思い出しました。 私の父が死んだ時です。 私は長男でしたから、お葬式や、その後始末で多忙を極め、2週間会社を休みました。 そして、会社に行く日がきました。 2週間も休むと、会社に行くのが億劫になります。 暗い気持ちで家をでました。 ところが、通勤電車の中、そして電車を降りてから、会社への道を急ぐ人々の姿を見ている中に、気持ちがどんどん晴れてきました。 私の父は、女子大の先生でした。お葬

  • 一寸先は光。今日を生きよう。

    もし今あなたが、 暗闇の中で絶望していたとしても、 一寸先は光だ。 まずは、今日一日を生きてみようよ。  "神は真実な方ですから、 あなたがたを、耐えられないほどの試練に 会わせることはなさいません。 むしろ、耐えられるように、 試練とともに脱出の道も備えてくださいます" と、聖書のコリント書10章に書いあります。

  • あなたに悪を行う人に、善を施すと、相手の頭に燃える炭火を積むことになる…と聖書に書いてある。

    「もしあなたの敵が飢えたなら、 彼に食べさせなさい。 乾いたらなら、飲ませなさい。 そうすることによって、あなたは彼の頭に 燃える炭火を積むことになるのです」 (聖書 ローマ人への手紙12:20) これっ、使える?!(笑) 悪いことした相手に、こちらは仕返しせず、 かえって良き対応をすると、 相手の頭には熱い炭火が一つ置かれるのです。 相手熱いよ~ 禿げるよ~(笑) まっそれは、ユーモア的な解釈。

  • ライブの力

    2010年6月5日東京藝術大学奏楽堂 上野の森オルガンシリーズ15「フランツ・リスト 栄光と祈り」  奏楽堂に入ると、舞台正面に巨大な屋久杉のような楽器がありました。 演奏が始まりました。 大気を震わせて、巨大な音塊が押し寄せ、全身がつつみこまれます。と思うと、はるか遠くに、かそけき笛の音が聞こえてきます。メロディーが、ときに切なく、ときに勇壮に浮かび上がり、次の瞬間にはあの複雑に入り組んだ音楽の

  • 教会からも落ちこぼれてしまったあなたへ

    競争社会からこぼれ落ちた者を 教会が受けとめる 教会からこぼれ落ちた者を 別の教会が受けとめる  その教会からもこぼれ落ちた者を キリスト教の団体が受けとめる  キリスト教の団体からこぼれ落ちた者を 心の友が受けとめる 友の心からこぼれ落ちた者を  いったい誰が受けとめるのか 社会全体からこぼれ落ちて  もう受けとめる者もいなくなったとき 主イエスがいちばん低いところにいて  あなたを受けとめてく

  • もしもあなたが、どん底に落ちても…

    もしどん底に落ちてしまっても、 そこにこそイエス・キリストの御手があるのだ。 大丈夫だ。   「たとえ倒れても、 それで終わりではありません。 主(イエス・キリスト)がしっかり 支えておられるからです」 (聖書 詩篇37篇24節)

  • 救いに至る方法と、善良な人間に至る努力とは、別物だ。

    「というのも、彼らには、キリスト様が、自分たちを神様の前に正しい者とするために 死んでくださったことが、わかっていないからです。そして、ユダヤ教のおきてや習慣を 守ることによって、神様の祝福をいただける善良な人間になろうと、努力を重ねています。しかし、神様はそんな方法でお救いになるのではありません。彼らが、おきてを守ることによって手に入れようとしているものすべてを、キリスト様は、ご自分を信じる人々

  • 石打ちになろうとしていた不倫の女に対する、イエス・キリストの態度

    罪を犯した一人の女が イエス・キリストの前に引き出されて来ました。 時の宗教家や群集はその女を、 石打ちの刑にしようと、 それぞれが石を手にしていました。 宗教家はイエス・キリストに問いました。   「あなたならこの女をどうしますか?」 もしイエス・キリストが、 「可愛そうだから助けてあげなさい」 と答えたら、 「イエス・キリストは規則を守らない男だ」 と糾弾できます。しかし 「規則通り石を投げつ

  • 正しい人は一人もいない。真実に神の道に従って歩んだ人もいない。

    「正しい人はどこにもいない。 罪のない人は世界中に一人もいない。 真実に神の道に従って歩んだ人はいない。 かって一人もいない。 そうしたいと願った人さえいない。 すべての人が道を踏み外し、みな、 まちがった方向に進んで行った。 正しいことをずっと行ってきた人は どこにもいない。一人もいない。」 これは誰の言葉でしょうか? 神の言葉である聖書の言葉(ローマ書3:10,11)です。 厳しい言葉ですが、

  • クリスチャンとは、どういう人のことか?

    「クリスチャン」とか「キリスト教」 というものは、実に多くの誤解があると思う。 いや私たちクリスチャン自身も、 自らのうちにある誤解を正す必要があるかも。 クリスチャンとは、神を信じる敬虔な、 清く正しく美しく生きる人を指す…のではない。 厳密には、そんな人は一人もいない。   誰であれ、どんな人であれ、今ある立場の中で、 イエス・キリストを信じる者は みんなクリスチャンなのだ。南無基督だ。 よく

  • 人は、行い では救われない

    立派な方、優しい方も沢山おられます。 しかし、自分の心の中にあること全てを 何の抵抗もなく、 あぴっろげに人々に見せられる人は、 まずいないのではないでしょうか。 あのマザー・テレサですら、 時として、自分の中にある悪い思いについて、 手紙の中で正直に告白していたりします。 人と比べて、 「あの人は素晴らしいなぁ」 あるいは、 「自分の方が少しマシだ」 と思うことはあるでしょう。 しかし、それはあ

  • ふつうの人エリヤ(旧約聖書 列王記 第一 第17章)

     エリヤは王宮から懸命に走って逃れました。 アハブ王が偶像礼拝の罪を犯したのを厳しくとがめ「自分の言葉によらなければこの地には露も雨も降らない。」と宣言してきたのです。すぐに王宮の兵士たちが追ってくるでしょう。 走り疲れ、息も絶え絶えに座り込んでしまったエリヤに、神の言葉が臨みました。 「エリヤよ、エリヤよ」 「はい、神様、ここにおります。」 「ケリテ川のほとりに身を隠せ。川の水を飲め。カラスがお

  • あなたのことを、「友よ」と呼び続けてくださるイエス・キリスト

    ユダといえば、 イエス・キリストの裏切り者として有名ですね。 確かに、イエス・キリストは直接的には、 このユダの裏切りによって十字架にかかります。 このユダが、 最後にイエス・キリストの元に来た時、 イエス・キリストはユダに対して、 「友よ…」 と話しかけられたのです。 イエス・キリストは、 「わたしがあなたがたに命じたことを あなたがたが行うなら、 あなたがたはわたしの友です。 わたしはもはや、

  • 天で立ち上がり、身を乗り出して、あなたを見つめてくださるイエス・キリスト。

    「見なさい。天が開けて、 人の子が神の右に立っておられるのが見えます」 2,000年前、迫害にあい、 今まさに石打ちで殉教しようとしていたステパノは、 天を見つめそう言いました。   人の子とはイエス・キリストのことです。 イエス・キリストは通常は 「神の右の座についておられる」 と聖書に表記されています。 しかし、この時、イエス・キリストは その座から立ち上がっておられたのです。 おそらくは身を

  • 駆け出しの牧師当時、『えっ、こんな人が、そんなことを…」と思ったものだ。今は誰から何を聞いても、『まっ、そんなことだろう…』と思う。

    30年近く前、牧師駆け出しの頃、人様から、 いわゆる「懺悔」的な話を聞くと内心、 『えっ、こんな人がそんなことを…』 と思うこともあったものだ。 でも、今は、誰から何を聞いても、 『まっ、そんなことだろう…』 と思う。人はどんな格好をしていようが、 口で何を語っていようが、 中身はそうそう変わりはしない。 50歩100歩だ。 あのイエス・キリストの一番弟子のペテロは、 イエス・キリストと出会った当

  • 聖書は、「…しなくてはならない」という道徳の書ではない。「神が…してくださる」という約束の書だ!

    【聖書の言葉】 「山々は動いて場所を変え、 丘が消えてなくなっても、 わたしの愛はあなたから離れない。 平安を与えるという約束を、 どんなことがあっても破らない。」 あなたをあわれむ主は告げます。 (イザヤ書54:10) 聖書を道徳の書として真摯な気持ちで読むなら、 あなたは苦しくなるはすだ。 「こんなことはできない…」と。 そして、聖書の言葉を使って、 他人の行いをさえ批判し始めるだろう。 しか

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