歴史紀行 78 清少納言 社
清少納言 社 京都府京都市右京区嵯峨朝日町 車折神社 境内 紫式部とほぼ同年代に活躍した女流作家、歌人の清少納言は、966年 (康保3年)頃、下級貴族ながら、著名な歌人であった清原元輔の末娘として誕生しました。 当時の女性によく見られる様に、正確な彼女の本名は紫式部 と同様に不明ですが、紫式部の女官... 続きをみる
清少納言 社 京都府京都市右京区嵯峨朝日町 車折神社 境内 紫式部とほぼ同年代に活躍した女流作家、歌人の清少納言は、966年 (康保3年)頃、下級貴族ながら、著名な歌人であった清原元輔の末娘として誕生しました。 当時の女性によく見られる様に、正確な彼女の本名は紫式部 と同様に不明ですが、紫式部の女官... 続きをみる
紫式部 像 京都府宇治市宇治蓮華5 ‐ 2 996年(長徳2年)7月、紫式部が24歳の頃 父、為時が越前守となり、赴任するために下向することになり、紫式部も父に同行して越前国に赴きます。 大国とはいえ、越前は地方。 都の生活に慣れた紫式部は越前への往路、近江の琵琶湖で… 【三尾の海に 綱引く民の 手... 続きをみる
紫式部 像 京都府宇治市宇治蓮華 5 ‐ 2 花山天皇の出家に伴い、官職を辞した紫式部の父、為時。 これにより為時は約10年もの間 無官となり、紫式部の家は貧しくなります。 転機が訪れたのは、長徳2年(996年)の除目(じもく〜朝廷が大臣以外の官職、国司(現代の都道府県知事クラスの首長)を任命する儀... 続きをみる
紫式部 像 京都府宇治市宇治蓮華 5ー2 京都の南部を流れる宇治川に架かる宇治橋の西詰は、宇治屈指の名所である平等院の表参道に当たることから、午前中から参詣、観光客が絶えることなく賑わいを見せています。 この平等院表参道のシンボルが紫式部 像です。 紫式部は 平安時代中期の貴族ながら、千年後の現在、... 続きをみる
"自分の恥を晒してどうする?" って言われそうだけど、勇気を出して晒します。 私は小学校、中学校の歴史の授業は正直苦手でした。 何故かというと・・・ 例えば 先生が『645年、中大兄皇子と中臣鎌足らにより"大化の改新"がおきました』と説明した。 でも、私としては中大兄皇子が「おい鎌足! 今から"大化... 続きをみる
紫 式部 像 京都府宇治市宇治橋 平安時代を代表する女性作家、紫 式部の父は花山天皇に漢学を講義した藤原為時で、代表作の源氏物語は、夫との死別後に書き始めたもので、架空の主人公の光 源氏の恋愛や平安貴族の政治闘争を描いた小説で、当初は書き上げたものを親しい仲間内に見せ合う程度だったものが、やがて貴族... 続きをみる
晴明塚 静岡県掛川市大渕 一昨年、1年間にわたって放送された大河ドラマ〜 【光る君へ】 主人公の まひろ こと、後の紫式部が時の権力者〜藤原道長との生涯をかけた出世と源氏物語、それに二人のラブストーリーを絡めた物語でした。 物語の序盤から この時代を生きた陰陽師〜安倍晴明も登場し、藤原道長の出世にも... 続きをみる
安倍晴明 像 京都市上京区 一条上ル晴明町806 堀川通 晴明神社 安倍晴明が歴史上 その名前が出てくるのは、平将門の乱(天慶の乱)から20年後の960年 天徳4年の晴明が40歳を過ぎてからのことで、晴明は師事している暦道、天文道、陰陽道を究めた賀茂忠行、保憲 父子の弟子として学びました。 賀茂父子... 続きをみる
安倍文殊院 奈良県桜井市阿部 安倍文殊院 陰陽道 安倍晴明ゆかりの寺院 映画 陰陽師(おんみょうじ)での活躍や、冬季オリンピックの男子フィギュアスケートで、羽生結弦選手が選んだ劇中の曲名が SEIMEI で、その世界観を体現した見事な演技力と構成により、金メダルを獲得したことにより、安倍晴明の名前は... 続きをみる
神田山 延命院 茨城県坂東市神田山 天慶3年(940年) 平将門 朝敵…この衝撃は計り知れないものでした。 村々の領民は、将門の善政に感謝しながらも、藤原秀郷らの将門が朝敵となったという触れに震え、それまで将門に従い国府を襲い領土拡大の軍勢に加わっていた者たちも、年明け以降はめっきり軍勢に加わりこと... 続きをみる
神々のメッセージは「貝」「音」「自分」「君自身が、宇宙の音を奏でる貝なんだよ」と教えてくれている。#自分磨き #平安時代 #シンクロニシティ まずはヘッドホンやイヤホンなどを使用して カタカムナノウタヒの音楽を聴いてみてください プラス波動を左右の耳(貝)でお楽しみください。 カタカムナノウタヒ〜余... 続きをみる
平安時代を舞台にした物語や、その時代における「光」の概念、そして沖縄の言葉「ゆいまーる」について 平安時代の文化・生活 コミュニケーション: 人々は直接会話するよりも、手紙(書簡)や詩歌(和歌や漢詩)を用いて感情や敬意を伝えていました。 言語と「ありがとう」: 平安時代の「ありがとう」に相当する言葉... 続きをみる
神田山 延命院 〜平将門公胴塚〜 茨城県坂東市神田山 善政を敷いて領民を慈しんでいた将門が、箍(たが)が外れた如く、関東一円の支配に乗り出したため、かつての都での主人であった右大臣 藤原忠平は将門を見限り、討伐者として敵対関係にあった平貞盛、藤原秀郷を充て、官軍を組織させました。 冠位と領地という餌... 続きをみる
東光寺【成田山不動堂】 静岡県 掛川市 大池 かつて隆盛を誇った名刹も、時代の推移の影響か、現在は活動をやめたらしく、見る影もない状態です。 東光寺という名は、奇しくも、武田信玄の長男〜武田義信が自害した古刹と同名で、こちらの遠州の東光寺は、起源は奈良時代にまでさかのぼります。 養老年間(720年)... 続きをみる
十九首塚(じゅうくしょづか) 静岡県 掛川市 大内 十九首塚史跡公園 平将門〜十九首塚の由来〜 いまから千百年の遥か昔、延喜3年(西曆903年)から天慶3年(940年) の、関東の内陸に位置する下総国(しもうさのくに、現在の茨城県坂東市)相馬郡猿島(さしま)の集落に、 桓武天皇の五代目の子孫にあたる... 続きをみる
将門塚【2016年3月撮影】 東京都千代田区大手町 平将門、菅原道真、崇徳天皇… この三柱は日本の三大怨霊と怖れられ、中でも 死後 怨霊として現代の世においても、日本中を恐怖に陥れているのが平 将門で、その平 将門の首塚とされるのが将門塚です。 暴政、苛烈な支配が横行していた当時の東国において、善政... 続きをみる
國王神社 茨城県坂東市岩井951 940年 天慶(てんぎょう)3年2月14日 和睦仲介の宴席 天慶(てんぎょう)三年(940年)2月14日 和睦仲介の成功による宴席において、酔いによる放言と、自らを頼ってきた者らの引き渡しを拒み、ついには国府の施設を襲ったことから朝廷から討伐の身となった平将門。 将... 続きをみる
九重の桜 茨城県坂東市岩井2345 関東地方も桜の満開を伝え、これから徐々に散ってゆきます。 この【九重の桜】の記事をそろそろ締め括るにあたり、満開の九重の桜を撮ろうと予定を立てましたが、4月4日の静岡県の天気は、茨城県までの移動も躊躇する春の嵐に見舞わてしまい、また、静岡市において恒例となっている... 続きをみる
九重の桜 茨城県坂東市岩井2345 都から召喚の命を受け、検非違使(けびいし〜当時の警察、治安維持、裁判の官職)へ出頭した将門。 都暮らしの長かった将門は、郎党と共に駿馬、生糸、絹織物、鹿の毛皮、米といった献上品を山ほど積んで上洛します。 かつての主で、現在は右大臣にまで上り詰めた藤原忠平はじめ、将... 続きをみる
九重の桜 茨城県 坂東市 岩井2345 源 譲との戦いで戦勝し、館を焼き討ちして叔父の平国香を焼死せしめた将門。 この報は都で将門と朋輩だった国香の嫡子、平貞盛に知らされ、貞盛は急ぎ帰郷します。 戦いの理由、発端を知り、将門に非は無いと悟った貞盛は、将門と手締め(和解)を行い、父の後継として常陸大掾... 続きをみる
九重の桜 茨城県 坂東市 岩井2345 将門の武勇は都に鳴り響くこととなり、また、郷里の坂東では、古くから大掾(だいじょう〜現代の町村長職)であった源 譲 家や、横暴な将門の叔父、国香、良兼らに搾取されてきた弱小の領主や百姓までも将門を慕い、頼る様になります。 将門は、〜来るものは拒まず、弱きを助け... 続きをみる
深井地蔵尊 茨城県 坂東市 沓掛 将門の妻子を憐れみ、地元の人々により守られてきた地蔵尊で、現在も丁重に整備されています。 平貞盛。 貞盛は将門に殺された平 国香の嫡子で、将門と源 譲の息子三兄弟が戦い、敗れた末に父が焼き討ちに遭い焼死したことを都で聞くや、左馬允(朝廷の馬の世話人、官職)の職を辞し... 続きをみる
平将門文学碑 茨城県坂東市岩井 平将門の妻に懸想していた先の大掾〜源 護の息子の三兄弟。 将門が護と領地争いをしている平 真樹から仲介を頼まれ、父の館にやって来るという話を聞いた三兄弟はこの際に襲撃しようと思いつきます。 三兄弟それぞれ妻も子もありながら、将門の美貌の妻を妾(愛人)にしたいと身勝手な... 続きをみる
平将門文学碑 茨城県坂東市岩井 八坂公園 将門記より(現代語訳〜) 聞くところによれば、かの将門は昔の「天国押撥御宇(あめくにおしはるきあめのしたしろしめす)」柏原(桓武)天皇五代の後裔であり、三世高望王の孫である。その父は陸奥鎮守府将軍・平朝臣良持(よしもち)である。弟の下総介・平良兼朝臣は将門の... 続きをみる
島広山 平将門公 石井営所跡 茨城県 坂東市 石井 都から帰郷した平将門は、亡き父の遺領を巻き上げる様に取り上げた叔父達への憤怒を胸に秘め、他領で過酷な搾取に苦しむ者達を受け入れ、地道に兵馬を鍛える策を取りました。 将門を懐柔すべく自身の娘を嫁がせて義父となった叔父の良兼は、既に取り上げて経営を始め... 続きをみる
成田山 新勝寺 千葉県成田市成田 本日、2月3日は節分でした。 悪鬼退散を念じて豆を撒く風習がありますが、節分は立春、立夏、立秋、立冬の前日の日のことで、特に江戸時代以降は立春の前日を指す日として定着しました。 成田山 新勝寺は、毎年 節分の日に多くの著名人が招かれて豆撒きをすることから、著名人目当... 続きをみる
石井の井戸跡 茨城県坂東市岩井 坂東市岩井。 この地の旧市名は岩井市でした。 その岩井という名は、将門が喉を潤した石井(いわい)の井戸がその由来です。 かつて小字に過ぎない石井郷でしたが、地下水の水脈が在るらしく、この水の豊富な地は人々が定住する流れとなり、また、平将門が喉を潤した石井(いわい)の井... 続きをみる
富士見の馬場跡 茨城県坂東市岩井 現在、坂東市の住宅街として栄える岩井地区も、1000年の昔、将門が乱を起こす前は牛馬の官牧が広がる地でした。 平安時代中期にまとめられた法典〜【延喜式】によると、富士見の馬場は諸国の牛馬牧として39牧の名称が記録され、そのうちの18牧が兵部省管轄の官牧でした。下総国... 続きをみる
平将門 公像 茨城県坂東市岩井 坂東市民音楽ホール ベルファーレ前 930年 延長8年、都での立身を断念した将門は下総国に帰郷します。 帰郷した将門の目に映ったのは、父、良将の広大な遺領は、将門の叔父にあたる国香、良兼、良正の三兄弟に横領されていました。 この三兄弟は下総国の大掾(だいじょう〜国司、... 続きをみる
平将門 公像 茨城県坂東市岩井 坂東市民音楽ホール ベルファーレ前 917年 延喜17年 鎮守府将軍であった父、良将が病没した翌年、将門は16歳にして故郷、下総国を後にして上洛して父と親交のあった右大臣 藤原忠平の元へ、出世の糸口を掴もうとして仕えます。 父と懇意でもあった藤原忠平は、その子である将... 続きをみる
平将門 公像 茨城県坂東市岩井 坂東市民音楽ホール ベルファーレ前 平将門。 現代人に出世に御利益をもたらす神として尊崇される神田明神に祀られる将門が、この世に生を受けた901年、延喜3年。九州の大宰府では、菅原道真が朝廷に激しい憎悪の念を漲(みなぎ)らせてこの世を去りました。 日本三大怨霊の先駆け... 続きをみる
平将門 公像 茨城県 坂東市 岩井 坂東市民音楽ホール ベルファーレ前 歴史上、逆賊や朝敵とされた人物は、全国…もしくは一般的には、そのイメージすら悪く、極悪人と捉えられるのことがあるでしょう。 例えば、幕末 戊辰戦争において、朝敵とされた会津藩主 松平容保(かたもり)は、明治新政府からは朝敵となっ... 続きをみる
平将門 公像 茨城県坂東市岩井 坂東市民音楽ホール ベルファーレ前 茨城県坂東市… 茨城県南西部に位置して、千葉県野田市と隣接している地方都市です。 街の大部分が旧岩井市で、平成の大合併により旧猿島町と併合され、誕生しました。 由来の坂東は、かつて関東全域を指す言葉で、市内を流れる利根川のことを、坂... 続きをみる
将軍塚 坂上田村麻呂公の墓 京都市 山科区 勧修寺 東栗栖野町46 坂上田村麻呂公園 二度の蝦夷征討は、蝦夷族長のアテルイとモレの投降をもって収束をみました。 光仁、桓武、平城、嵯峨の四帝に仕えた忠臣〜田村麻呂が最後に武勇を発揮したのは、かつて仕えた平城天皇が病気を理由に譲位した後に勃発した薬子の変... 続きをみる
阿弖流為 母禮の碑 京都市東山区清水1丁目 清水寺 阿弖流為(アテルイ)、 母禮(モレ、盤具母禮〜いわぐのもれ)の碑 蝦夷(えみし)… 奈良時代末期〜第一次征討 巣伏の戦い 都の貴族達から見た関東以北の陸奥国(むつのくに)は、肥沃な土地、駿馬、なにより豊富な黄金と、正に夢の大地でした。 しかし、帝、... 続きをみる
菅原道真 公像 東京都八王子市初沢 みころも公園 高尾天神社 日本は年が明けると、入試シーズンとなり、高校や大学、それに就職活動が本格的に動き出し、受験生や親御さんなどには特に篤い崇敬を受けるのが学問の神様として知られる菅原道真公を祭神とする全国に大小 一万にも及ぶ天満宮、天神社てす。 平安の時代、... 続きをみる
菅原天満宮 〜菅原氏発祥地 奈良県奈良市菅原町 菅原天満宮 拝殿 学問の神として知られる菅原道真を輩出した菅原氏は、道真の祖父、土師(はじ)古人が改名して菅原の姓を名乗りました。 古代豪族の土師氏の始祖は、角力【相撲】の始祖でもある野見宿彌【のみのすくね】とも言われ、第11代天皇 垂仁天皇の時代に、... 続きをみる
清水寺 京都市東山区清水一丁目 798年8月17日(延暦17年7月2日) 征夷大将軍 坂上田村麻呂、清水寺を創建 京都市内一の景観は?と問われた場合、多くの人が思い浮かべるのが、金閣、銀閣、そして清水寺と答えるのではないでしょうか。 京都市内を一望できる東山の景勝地でもある清水寺の開創は、794年の... 続きをみる
高野山 奥の院 弘法大師御廟 和歌山県伊都郡高野町 高野山 835年 承和2年 正月、京での宮中の後七日御修法(みしほ)や公式行事を終えた弘法大師 空海は2月に高野山に帰った後に、食事を絶って坐禅三昧の日々を送ります。 3月15日、空海は弟子達を集め、21日に入定すると予言し、真言宗信徒が守るべき2... 続きをみる
高野山 奥の院 仙陵 和歌山県伊都郡 高野町 高野山 奥の院は、戦国大名や源平の武者、あるいはその時代で活躍した政治家や文化人に至るまで、様々な人物が墓所、供養塔などを建立してきましたが、大師御廟の近くには、江戸時代後期から幕末にかけての112代 霊元天皇から始まる歴代天皇の遺髪や歯、爪が陵墓として... 続きをみる
高野山 奥の院 祈親上人霊屋 和歌山県伊都郡高野町 高野山 祈親上人は、弘法大師 入定後、相次ぐ火災などで荒廃した高野山に入り、山内の復興に生涯を捧げました。 法名の【祈親】とは、常に経を持ち、両親の菩提を祈るためと言われてます。 13歳で仏門に入った祈親は奈良 興福寺で仏法を学び、1016年 長和... 続きをみる
高野山 奥の院 燈籠堂 和歌山県伊都郡高野町 高野山 奥の院 燈籠堂は、はじめ、弘法大師の高弟 真然大徳が建立したと伝わります。 その後、平安時代も後期となる1023年 治安3年、藤原道長が現在のものに近い燈籠堂を建立しました。 堂の正面には、約1000年近い間燃え続けている二つの【 消えずの火 】... 続きをみる
高野山 奥の院 嘗試地蔵(あじみじぞう) 和歌山県伊都郡高野町 高野山 高野山の開創から およそ20年で弘法大師 空海は入定され、いまなお瞑想の境地にいるとされています。 このため、弘法大師は死者にあらず、生きておられるのだから、当然 食事をなされるということて、御巌窟で瞑想している弘法大師の元へ午... 続きをみる
高野山 奥の院 御供所 和歌山県伊都郡高野町 高野山 御供所は、御巌窟に入定した弘法大師が、今なお瞑想の境地にあり、このため、弟子たちが大師に日々の食事(お生身供~おしょうしんぐ)を奉仕するために小さな庵を建てたのが始まりです。 大師へのお生身供を毎日、午前6時と午前10時30分の一日2回、ここで調... 続きをみる
高野山 奥の院 御廟橋 和歌山県伊都郡 高野町 大師廟の霊域へと入る御廟橋は、罪や煩悩を消し去る無明の橋とも言われ、敷き詰められた板石は36枚で、橋全体を一尊とと考え、金剛界37尊を表しています。 板石の裏には、それぞれ梵字の種字(シンボル)が刻まれ、橋を渡ると仏の浄土へ行くと信じられています。 御... 続きをみる
高野山 奥の院 中の橋 和歌山県伊都郡高野町 高野山 奥の院 【 中の橋 】は、一の橋と御廟の橋の間にあるので中の橋といい、正式には、手水橋(ちょうずばし)とも呼ばれ、御廟が建立された後の平安時代以降は、禊ぎ(みそぎ)の場として使われました。 橋の下を流れる川は【金の河】といい、 【金】は【死】の隠... 続きをみる
高野山 奥の院 一の橋 和歌山県伊都郡高野町 高野山 高野山 奥の院は、弘法大師 空海が入定された御廟への参道で、一の橋から先は浄域とされています。 正式には、【大渡橋】と呼ばれ、弘法大師が参詣者をこの橋まで送り迎えするという伝承があります。 参詣者は浄域の入口であるここで礼拝してから渡り、約2キロ... 続きをみる
高野山 総本山 金剛峯寺 和歌山県伊都郡 高野町 総本山 高野山 金剛峯寺は、弘法大師 空海が開創した当初、~金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経~ 【こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう】 という経に基づいて名付けられた高野山 全山の総称です。 現在も真言宗 高野山の中心となる寺院で、全国の高野山 真言宗... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 金堂 和歌山県伊都郡高野町 高野山 金堂は講堂とも呼ばれ、高野山開創間もなく、弘法大師 空海の私願の講堂として造営が進められました。 創建された金堂は一山の総本堂となり、本尊と両部曼陀羅を修法する三壇を持つ真言密教の大堂として、重要な年中行事の大半をこの堂で執り行われてきました。 ... 続きをみる
智泉大徳廟 智泉大徳廟 和歌山県伊都郡高野町 高野山 智泉大徳は、母が弘法大師 空海の母の姉にあた り、つまり、空海の甥で、親戚の間柄になります。 空海がまだ僧侶の資格すらない世に出る前の私度僧として、四国の山林の中を歩く山岳修行中の身だった頃から弟子となり、やがて智泉16歳のとき、空海と共に遣唐使... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 愛染堂 和歌山県伊都郡高野町 高野山 後醍醐天皇は、即位以来、天皇親政の政治を目指し、鎌倉幕府の打倒を掲げ、天皇に忠誠を誓って蜂起した楠木正成らの活躍もあり、1333年 建武元年に鎌倉幕府を滅亡に追い込み、ここに建武の新政が成りました。 愛染堂は、建武の新政が成った翌年、1334年... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 孔雀堂(くじゃくどう) 和歌山県伊都郡高野町 高野山 孔雀堂は、1200年 正治2年、後鳥羽上皇(後鳥羽天皇)の御願により、講雨(雨乞い)祈願の祈祷を行った東寺の高僧 延昊(えんこう)大僧上が降雨を成就させたとして、後鳥羽上皇から賞賜として堂宇の建立を賜り、祈雨の本尊 孔雀明王を祀... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 不動堂 和歌山県伊都郡高野町 1197年 建久8年、平家滅亡、奥州藤原氏の滅亡により、鎌倉に源頼朝を征夷大将軍とする武家政権が誕生して5年あまり。 南都では平家に焼き討ちされた東大寺が再建供養が行なわれるなど、国内は一応の安定を見せた頃、高野山では鳥羽上皇の皇女 八条女院の発願をう... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 六角経蔵 和歌山県伊都郡高野町 高野山 高野山 壇上伽藍の六角経蔵は写経を収める蔵のことをさし、その形が六角錐であることから【六角経蔵】と呼ばれています。 鳥羽天皇の皇后であった美福門院が天皇の菩提を祈るために、浄写された一切経 千巻を納めるために建てられたのが六角経蔵の始まりであ... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 准胝堂(じゅんていどう) 和歌山県伊都郡高野町 高野山 准胝堂の本尊の准胝観音は、弘法大師 空海が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造ったと伝えられ、額に3つ目、18本の腕には、剣や錫杖を持つ姿が千手観音と酷似しています。 像の建立当初は食堂(じきどう)に安置されていました。 名称... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 大会堂 (だいえどう) 和歌山県伊都郡高野町 高野山 大会堂は、平安時代後期の1175年 安元元年、鳥羽法皇(鳥羽天皇)の皇女、五辻斎院頌子(いつつじのさいいん しょうこ)内親王が父、鳥羽法皇の追善供養のため、壇下に創建しました。 後に西行が長日不断談義の学堂として壇上に移すことを... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 三昧堂 和歌山県伊都郡高野町 高野山 壇上で一番小さな堂宇の三昧堂は928年 延長6年、金剛峯寺 座主、済高大僧正が金剛界大日如来を本尊として壇下に創建しました。 この堂内で修行三昧だったことから三昧堂という名が付いたとも言われてます。 1177年 安元3年、西行が壇上に移しました... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 東塔 和歌山県伊都郡高野町 高野山 東塔は、1127年 大治2年、院政を敷いて絶大な権力者となった白河院(白河天皇)が醍醐寺三宝院の勝覚 権僧正に造営を託して創建しました。 白河院等身大の尊勝仏頂尊と不動明王、降三世明王の三体を本尊に奉安しました。 ただ、大治2年の創建から約1年余... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 根本大塔 和歌山県伊都郡高野町 高野山 816年 弘仁7年、弘法大師 空海が高野山の開創にあたり、真言密教の根本道場として建立を目指したのが根本大塔です。 弘法大師 空海と 真然大徳の二代に渡り造営が進められ、創建が成ったのは、大師入定から半世紀後の887年 仁和3年頃とされ、大塔... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 西塔 和歌山県伊都郡高野町 高野山 西塔は、弘法大師 空海が入定前に遺していた御図記に認め(したため)ていたもので、886年 仁和2年、二世 真然大徳が光孝天皇の勅命により壇上伽藍 西北の隅に建立されました。 高さ27・27メートルの多宝塔で、金剛界大日如来像と胎蔵界四仏の五仏像が... 続きをみる
大塔の鐘 和歌山県伊都郡高野町 高野山 大塔の鐘は、弘法大師 空海が発願していたもので、弘法大師 入定後、高弟 真然大徳により建立されました。 鐘楼も建立されたものの、火災で焼失し、梵鐘自体も3度ほど改鋳され、現在伝わる銅製の梵鐘は、1547年 天文16年に完成したもので、直径2.12メートルの高野... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 三鈷の松 和歌山県伊都郡高野町 高野山 壇上伽藍の御影堂の前に、弘法大師 空海の伝説として語り継がれている三鈷宝剣事という話があります。 806年 大同元年、唐国へ渡り、長安の青龍寺で国師、恵果阿闍梨から真言密教を授かり、帰国の途につこうとした弘法大師 空海が伽藍建立の地を示し給え... 続きをみる
御影堂 高野山 壇上伽藍 御影堂【みえどう】 和歌山県伊都郡高野町 高野山 大師伝説の三鈷の松の前に建つ御影堂は、弘法大師 空海の持仏堂として建立された伽藍でしたか、大師入定後、実恵僧都が大師の御影を祀り、安置する堂としたことから御影堂の名がつきました。 堂内の外陣には、大師の十大弟子の肖像が大師御... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 山王院 和歌山県伊都郡高野町 高野山 816年 弘仁7年、弘法大師は高野山の開創に際して、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の地主神として、丹生明神(にうみょうじん)と高野明神の分霊を高野山の守護神として御社(みやしろ)」に祀りました。 弘法大師 空海が山内の地主神として祀... 続きをみる
高野山 壇上伽藍 御社 (みやしろ) 和歌山県伊都郡高野町 高野山 高野山の 開創にあたり、819年 弘仁10年に弘法大師 空海は、山内の四方に結界を結び、その結界の守護として丹生都比売(にうつひめ)明神、高野(狩場)明神の両大明神を勧進しました。 丹生明神は、空海が高野山入山の際に道案内した女性で... 続きをみる
壇上伽藍 中門 持国天 多聞天 広目天 増長天 高野山 壇上伽藍 中門 和歌山県伊都郡高野町 高野山 高野山 壇上伽藍は、819年 弘仁10年、高野山を賜った弘法大師 空海が最初に造営を手掛けた宝塔や堂宇10以上の伽藍域で、弘法大師 空海が入定した奥の院とともに、高野山の二大聖域とされています。 中... 続きをみる
高野山 高野七口、女人堂 和歌山県伊都郡高野町 高野山 山上の霊峰に広がる台地を、異相の猟師が連れた犬と、一人の女性に導かれる形で発見した弘法大師 空海により高野山は開創されました。 高野七口 真言密教の一大聖地として高野山を囲む山の尾根を通る結界道【女人道】を境界に、山内と下界をつなぐ出入り口が高... 続きをみる
高野山 和歌山県 伊都郡 高野町 高野山 高野山は、海抜1000メートルの山上の盆地に弘法大師 空海が真言密教の一大聖地として開創しました。 空海による高野山の発見は、伝説のような逸話に彩られています。 806年 大同元年、唐の長安 青龍寺の恵果阿闍梨に真言密教の正統な後継者として認められ帰国の徒に... 続きをみる
延暦寺 文殊楼 滋賀県大津市坂本本町 比叡山 文殊楼は延暦寺の山門にあたり、高い石段を隔て根本中堂の東側にあります。 徒歩で本坂を登ってくると、急勾配の階段を登り、まずこの門を潜ることになります。 慈覚大師 円仁が中国五山の文殊菩薩堂に倣って創建したものですが、1571年 元亀2年、織田信長の比叡山... 続きをみる
延暦寺戒壇院 滋賀県大津市坂本本町 戒壇院は、僧になるための必修の条件である戒律を受ける伽藍で、いわば僧を新たに生み出すための最も重要な伽藍の一つです。 そもそも戒壇院は、奈良時代中期に5度の航海の失敗の末に失明してもなお、渡海を諦めずに日本へ渡った鑑真和上が奈良、東大寺に建立したのが最初の戒壇院で... 続きをみる
比叡山 延暦寺 阿弥陀堂 滋賀県大津市坂本本町 延暦寺 阿弥陀堂は、創建は比較的新しく、1937年 昭和12年、比叡山開創1150周年の大法要を記念して建立された一般檀家、信徒達の先祖のための回向道場です。 本尊は堂宇のその名の様に阿弥陀如来 像で、延暦寺の一般檀家、信徒の先祖供養や回向、法要のため... 続きをみる
比叡山 延暦寺 大講堂 滋賀県大津市坂本本町 比叡山頂 比叡山 延暦寺は、788年 延暦7年、伝教大師 最澄が比叡山に入り、薬師如来を本尊に一乗止観院を建立したのが始まりで、そもそも延暦寺という伽藍自体は無く、比叡山全体の総称が延暦寺となっています。 その中で、現在の東堂の根本中堂が総本堂にあたりま... 続きをみる
延暦寺 根本中堂 滋賀県大津市坂本本町 延暦寺の総本堂である根本中堂。 早朝の静寂から始まり、陽が高く登ると仏道の僧がしのぎを削り、夜の帳が下りるまで経の声は途切れを知らず、そして日々繰り返され、時を刻み続けました。 浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗(禅宗)、日蓮宗など… 今日(こんにち)の日本の仏... 続きをみる
[2023マッシュ春旅]2023年05月04日・東北・山形21・県道1号 道の駅 米沢(山形県・米沢市) 平安時代の遺跡のど真ん中にある道の駅です。。。 (「・ω・`)・・・ドレドレ 道の駅米沢(みちのえき よねざわ)は、山形県米沢市にある主要地方道米沢高畠線の道の駅です。2018年(平成30年... 続きをみる
橘逸勢神社 静岡県浜松市北区三ヶ日町本坂 橘 逸勢(たちばなのはやなり)は、平安時代の初期、空海、最澄らと共に遣唐使船に乗り唐に渡って留学した貴族で、空海、嵯峨天皇とならび、平安時代の三筆と称されます。 帰国後の逸勢は、琴と書に傾倒し、第一人者となるも、突如いわれのない陰謀に巻き込まれます。 842... 続きをみる
伝教大師 最澄 像 滋賀県大津市坂本本町 比叡山 延暦寺 天台宗開祖、伝教大師 最澄は、767年 神護景雲元年、比叡山周辺の坂本の地を領した豪族、三津首氏の子として生まれました。(幼名~広野) 12歳で出家、14歳で得度し、最澄と名を改めました。 仏教の勉学と修行に励む最澄は、奈良でさらに研鑽を重ね... 続きをみる
弘法大師 空海 像 京都市南区九条町 東寺 境内 806年 大同元年、 空海は九州に上陸して帰国を果たします。 ただ、20年の留学条件を、わずか2年で帰国した空海は問題視され、九州から出ることを禁じられてしまいます。 空海は九州、大宰府に留まる間に自身が学んだ密教の教えや師、恵果から託された法具や膨... 続きをみる
弘法大師 空海 像 静岡県藤枝市本町成田山新護寺 805年 延暦24年5月、空海は長安の密教寺院 青龍寺の恵果 阿闍梨を訪ねます。 恵果は密教の七祖で、皇帝からも祈祷を託され、信任された高僧で、千人を超える弟子が集まっていました。 恵果は空海を一目見ると、【~お前が来るのを待っていた。私の命は間もな... 続きをみる
静岡県藤枝市本町 成田山新護寺 804年 延暦23年、私費で20年間の留学僧として、遣唐使船に乗り、空海は唐に渡りました。 空海が渡海した第16次遣唐使船団の中に、既に天皇のための祈祷を行う十禅師の一人で、天台宗の開祖、最澄もいました。 出港から約1ヶ月、空海の乗った船は嵐にのまれ、目指した唐の都、... 続きをみる
弘法大師 空海 像 静岡県藤枝市本町 藤枝 成田山 新護寺 弘法大師 空海は、奈良時代末期の774年 宝亀5年、四国の讃岐国 多度津(現在の香川県 善通寺市)で、生まれました。 幼名は眞魚(まお)、郡司(地方役人)の父を持ち、兄二人が夭折したために、眞魚は後継ぎとして育てられますが、眞魚は早くから仏... 続きをみる
東寺【教王護国寺】食堂(じきどう) 京都市南区九条町 東寺は、南大門から入ると、金堂、講堂、食堂(じきどう)と真っ直ぐに大伽藍が並んでいて、境内のこの配置は、仏法僧(ぶっぽうそう)を表しています。 金堂には本尊の【仏】。 講堂は真言密教の教えの【法】。 そして、食堂が【僧】。 東寺の僧が修行を見いだ... 続きをみる
東寺 【教王護国寺】 講堂 京都市南区九条町 講堂は、官寺だった東寺を賜った空海が825年 天長2年、寺域の中心地に造営をはじめました。 空海は、真言密教の教えの入口としての講堂を位置付けし、講堂を中心にすることで、本尊 大日如来を宇宙の中心ととらえました。 講堂内部は大日如来を中心に阿弥陀、不空成... 続きをみる
東寺【教王護国寺】 金堂 京都市南区九条町 794年 延暦13年、平安遷都を敢行した桓武天皇は、2年後の796年 延暦15年に平安京の南に築いた羅城門の東に東寺、西に西寺と、二大寺院の建立をもって東寺は東の王城鎮護。西寺は西の王城鎮護を担う官寺としました。 金堂は東寺で最初に造営された伽藍で、東寺一... 続きをみる
東寺 【教王護国寺】五重塔 京都市南区九条町 794年 延暦13年、長岡京より平安遷都を敢行した桓武天皇は、遷都から2年後に平安京 南の羅城門の東側に王城鎮護の寺院として東寺を建立しました。 京都市内付近を新幹線の車窓から見える東寺 五重塔 東海道新幹線やJR各線、それに近鉄線が京都駅に到着する際に... 続きをみる
平安宮 大極殿跡 内裏跡 大極殿跡 京都市上京区千本通丸太町上ル 児童公園 内裏跡 京都市上京区田中町 羅城門(縮尺模型) 京都府京都市下京区東塩小路釜殿町 京都駅前 羅城門跡碑 京都市南区唐橋羅城門町 唐橋羅城門公園 781年 天応元年 4月30日、光仁天皇の譲位に伴い、天智天皇の系譜の山部王が第... 続きをみる
竹採公園 竹採物語(伝説)発祥の地 静岡県富士市比奈 昔話で有名な かぐや姫の物語。竹から生まれた美しい姫が成長し、最後は月に帰るという物語です。 竹取物語にまつわる史跡は全国に、京都府や奈良県など、主に関西圏に伝わっていて、とりわけ京都府京田辺市が古くて最有力とも言われていますが、今回の記事では ... 続きをみる
事任八幡宮 (ことのまま はちまんぐう) 静岡県掛川市八坂 創建は13代 成務天皇の御代(西暦100年代)と伝わる事任八幡宮は、征夷大将軍〜坂上田村麻呂が東征の折り、桓武帝の勅を奉じて本宮山より践祚すという延喜式 927年の神明帳にあり、この頃 再興したと考えられます。 その後、 平安時代も中期に差... 続きをみる
晴明塚 静岡県 掛川市 大渕 昨年、1年間にわたって放送された大河ドラマ〜【光る君へ】 主人公の まひろ こと、後の紫式部が時の権利者〜藤原道長との生涯をかけた出世と源氏物語、それに二人のラブストーリーを絡めた物語でした。 物語の序盤から この時代を生きた陰陽師〜安倍晴明も登場し、藤原道長の出世にも... 続きをみる
12月8日(日)大河ドラマ 〝光る君へ〟第47回。 (来週最終回!!) 『刀伊の入寇に関しては、 大宰府からの使者が京に到着するまでには 10日前後かかりました。 今日の情報化社会の中では ちょっと考えられないことですが、 京にもたらされる「最新情報」も 10日ほど前の情報に過ぎません』 『承和6年... 続きをみる
痛みも無くなり 歩ける自信を取り戻してる母 細くなった足、筋力が落ちてふらつき 危なっかしいにも関わらず もう自信過剰を止められない お年寄りってお金を使う機会が少なくなるから 孫にお小遣いやお土産というイメージだったけれど 食料品、被服服飾、化粧品、日用品を毎日 必要以上に買うことが趣味、生き甲斐... 続きをみる
夕食は鰹のたたき 大量の玉葱と大葉にパセリが乗っかってた主人作.. 大根と人参の煮物 採れたて家庭菜園の収穫野菜サラダ ドレッシングは大葉のオイルフリーサラダ ゼンナ(ハマグリの子供)の酒蒸し 実もお出汁も 濃厚で美味!!美味しかったです 貝が大好きだ 縄文時代の血が騒ぐ~!? 御味御汁はキャベツと... 続きをみる
毎週、楽しみに見ている 大河ドラマの『光る君へ』 後半の本が出ました。 ネタバレになるので 内容はお話ししませんが、面白いです! 人生は、出会いと別れ ほんとうに、そうですね。 平安の世は、現代では考えられないほど 豊かで懐深く創造に富んだものだったのでしょうか。 なんて、思いを馳せてみたりします。... 続きをみる
ひょっこりのお誘いがあって、国史跡「斎宮跡」の見学旅行に参加してきました。 参加者数は20人チョイ弱で、行き先は筆者の生息地・愛知県のお隣である三重県、 さらに詳しくなら、多気郡明和町になるとのことです。 それはいいとしても、何ですか? そもそも、その「斎宮跡」って? 準備不足のままの参加でしたから... 続きをみる
4月29日は、なんと、「畳の日」ですよ~~~ そんな畳の日にちなんで、プラットホームコンテナスロープを ご紹介致します~~~ 倉庫、コンテナなどの移動口に直接接続して、フォークリフトで搬入出可能! 本体移動時はフォークリフトを使用して移動可能! ストローク:1000~1500mm!!
今年こそ、大河ドラマをしっかり見るぞ と思って 日曜日は、夜8時の大河ドラマに照準を合わせて、一日の計画を立てている。 照準だなんて ちょっとオーバーなんだけど(笑) 毎年、今年こそは、ちゃんと大河ドラマを見ようと思うのだけど なんだかんだと、ダラダラ家事をしていたり 外出からの帰りが遅くなり、やっ... 続きをみる