• 江戸を見れば 108  時代の節目には新人が登場するものだ

     1710年宝永7年庚寅(かのえとら) 生類憐みの綱吉将軍が没し、大老柳沢吉保が隠居して、新しい時代には新しい人が現れるものだ。  側用人間部詮房(まなべあきふさ)は事務的能力にたけていて、政治に対する建議は新井君美(きみよし・白石)によっていた。  武家諸法度や諸士法度の理念は新井白石の儒学思想や儀礼主義が基本となっている。  しばらくは、新井白石から目が離せない。  一介の無役の旗本であった新

  • 江戸川柳 色は匂へ  「た」の3 鯛 4 大伽藍(だいがらん)

    ひだを直しながら鯛の先へ立ち    威儀を正して進物にする鯛。  江戸時代の鯛は、めでたい魚とされ祝に送る習慣があった。特別の魚である。 まだうごく尾へ奉書の紙をかけ    祝いの儀式、ありがたく頂戴。  奉書=上意を奉じて侍臣・右筆(ゆうひつ)らが下す命令の文書。 鯛ぐらいただうんうんと御あいさつ  賄賂流行時代、鯛ではねえ。うんうん。 鯛肩身釣るまで待つと夫人なり    女の実利主義、まつわ、

  • 江戸川柳 色は匂へ  「よ」の3 吉野山 4 吉原(よしわら)

    吉野山十七文字ではほめたらず   字余りで褒めたんだ。  参考 貞室の俳句「これはこれはとばかり花の吉野山」は一字多い字余りの句である。 吉野山むだ花の咲く四十年   南北朝の戦で花見どころではなかった。 4 吉 原 吉原の方へ死んでも枕をし    北枕のこじつけ、男の性か。  参考 江戸で唯一の官許の吉原は、男の社交場でもあった。男の関心は常に北(吉原の異称)にあり、死んでも北枕になって吉原の方

  • 江戸川柳 色は匂へ  「か」の3 鏡 4 学問

    おはぐろが喰いつくやうに鏡を見   真剣勝負の顔だ。怖いぞ。 参考 おはぐろ液を口の中に垂らすと異様な味がするので慎重を要する。 月食に向って下女はぬり立る     曇りかがみを手で拭いて・・・ 鏡へむかい鼻など下女つまみ     つまんでもたこうはならんで 鼻息で近目鏡をくもらせる      まったく、メガネがくもる。 4 学 問 学問とはしごは飛んでのぼられず   すべてが継続の力に欠ける時代

  • 江戸川柳 色は匂へ  「わ」の3 若旦那 4 わっち(私)

    若旦那夜はおがんで昼しかり     昼主人、夜家来 たいへんですね。 いふ事を夜きく下女は昼きかず    頭上がらないな、まあいいか。 若旦那さまと書いたを下女おとし   親父に拾われたら大変だぞ。 4 わっち みづからをすててわっちをご寵愛   わっちの方がおもしろいや。  参考、みづから=身分ある女の自称 わっち=中以下の町家の女の自称 屋しき中わっちが思ふやうにする   あやつられるバカ殿様

  • 江戸を見れば 107  徳川綱吉将軍麻疹で没

     1709年宝永6年己丑(つちのとうし) 正月10日に綱吉は麻疹で没した。2月には夫人も麻疹で死没。  批判の的であった生類憐みの令と宝永通宝の通用令は廃止された。  人事の刷新も行われ、5月1日には家宣(いえのぶ)が将軍となり、6月3日には柳沢吉保は隠居した。  側用人間部詮房(まなべあきふさ)と若年寄支配下であった新井君美(きみよし・きんみ)(白石は号)の時代となった。  綱吉の死は、人々をホ

  • 江戸を見れば 106 諸国に種痘・赤痢・麻疹流行

     1708年宝永5年戊子(つちのえね) 品質の悪い銅銭を改鋳した。しかし、ほとんど通用しなかったので、強制通用令を出した。  悪銭、宝永通宝を使わせるために幕府は貧富・老若・男女を問わず全ての国民に証書を書かせて使うことを毎日督促した。  当時の落首に「美濃かみは次第に薄く狭くなる越前かみの幅のひろさよ。」  参考、落首(らくしゅ)=落書(らくしょ)の1首の意。諷刺・嘲弄・批判の意をこめた匿名の戯

  • 書籍:「いろは判じ絵 —江戸のエスプリ・なぞなぞ絵解き」

    この本も図書館で借りました。本気で謎解きをやってみる難しすぎてどれも解けません。 江戸時代の生活習慣の知識を知らないと何も解けないと思います。なぜその絵がその言葉を意味するかの解説がすべて載っていると思いましたが、最初の数ページだけです。

  • 江戸を見れば 105  庶民の政治に対する批判噴出

     1707年宝永4年丁亥(ひのとい) 落書・捨文をはじめ、流言・雑説は度々の禁令にもかかわらず繰り返し行われた。  参考、落書(らくしょ)=らくがき。時事または人物を諷刺・嘲弄した匿名の文書。人目につきやすい場所や権勢家の門などに貼りつけ、または捨文(すてふみ)として道路に落として置くもの。  流言・雑説=根拠のない風説。うわさ。流説(るせつ)  いつの時代も当時の「落書き」を見ると庶民の政治や権

  • 江戸川柳 色は匂へ  「お・を」の5 大三十日(おおみそか)

    大晦日首でも取って来る気也    いざ出陣、無事のお帰りを。  参考、江戸時代の大晦日の意味を知らないと落語の鑑賞はできない。庶民の支払いは盆と暮れの二期払いか、年4度の支払いとなっており、決済の時期が長かった。  だから、掛け売り代金を取り立てる方も代金を支払う方も、首を取るか取られるかの真剣勝負であった。井原西鶴の世間胸算用「掛け取り上手の五郎左衛門」や町人の生活の悲喜哀歓が伝わってこない。

  • 江戸を見れば 104  柳沢吉保 大老となる

     1706年宝永3年丙戌(ひのえいぬ) 幕府は相も変わらず財政の窮迫を救うために元禄銀の銀の含有量を50パーセントとして新銀貨を鋳造・発行した。  通貨は膨張して実質低下となり物価は騰貴するもそれを抑制する政策は打てなかった。諸物価引き下げ令を出し、暴利の豆腐屋まで処罰する一方、相も変わらず生類憐みの令に違反するものを厳しく処罰した。   生類憐みの令において多くの保護規定が出されたのは、犬に関す

  • 書籍:「池波正太郎を“江戸地図”で歩く」

    この本も図書館で借りました。内容は、「池波正太郎の『江戸三大シリーズ』ともいうべき『鬼平犯科帳』、『剣客商売』、『仕掛人・藤枝梅安』」で描かれた江戸の街路を、古地図と現代地図を通じて新たに読み解いていきます。平成27年に没後25年を迎えた作家・池波正太郎は東京の下町(浅草)に生まれ、そこで体験した幼少期以来の記憶や、 その後、江戸の古地図(切絵図)などを持って東京の町を散策した中から、 その独自の

  • 江戸を見れば 103  伊勢お陰参り大流行

     1705年宝永2年乙酉(きのととり) 幕府は1月に禁裏御料に1万石を増献して、3万石とした。  参考=禁裏御料(きんりごりょう)は皇室の所有地の総称。禁裏とはみだりにその中に入るのを禁ずる意味で、宮中、皇室、御所、禁中のこと。  これは将軍綱吉の皇室尊崇の表れで、文治主義の反映である。  7月には柳沢吉保の引退にあたっての三事(城中出入時の門番らの下座と在所諸大名からの呈書と贈り物の廃止)を決め

  • 江戸を見れば 102  武士に対する刑罰が緩和

     1704年元禄176年甲申(きのえさる) 綱吉の文治政治の象徴ともいうべき湯島の聖堂が前年の大火によって類焼したのを再建し11月に落成、遷座式が催された。  文治主義(ぶんちしゅぎ)の具体化として、武士に対する刑罰の内容が緩和された。半面、幕臣や役職の綱紀の弛緩が現れ始めた。  参考=武士の刑罰例、閉門・逼塞(ひっそく)・遠慮は武士や僧侶に対する監禁刑。自宅での謹慎で閉門が一番に重かった。門や窓

  • 江戸川柳 色は匂へ  「ぬ」の3 抜身 4 濡れの幕

    抜身の中へ飛込むは湯番也     湯屋での喧嘩はつい笑っちゃうね。  抜身=抜いた刀。転じていわゆるふりちん。 義朝はぬき身をさげてうち死し   侍や暴力団員の抜き身は命がけ。 4 濡れの幕   ぬれの幕=濡れは情事の意。歌舞伎で男女の痴態を演じる場面。 ぬれの幕などで仲人返事させ    仲人の作戦。にくいね。 ぬれの幕下女のび上り叱られる   夢中になってしまったわ。 元禄前句附 15 (前句)

  • 江戸を見れば 101  大石ら46人、切腹

     1703年元禄16年癸未(みずのとひつじ) 大石ら46人は2月4日に武士の礼をもって切腹させられた。その家族も縁坐によって処罰され吉良家の一族もそれぞれ処分された。  縁坐=犯罪人の親類縁者が連帯責任を取らされること。  切腹した46人には19人の男子がいたが15歳以上の者は4人で、4月27日に大島に遠島になった。それ以下のものはみな出家となった。  3年後の宝永3年に許されて帰ったが、ひとりだ

  • 江戸川柳 色は匂へ  「ち」の3 地女(ぢおんな)4 乳

    地女にびれつくむす子高がしれ   大胆に金を使えよ。色道を極めれ。 参考 地女=素人女、地ものともいう。びれつく=色気を出す。でれでれする。 「ち」の4 乳 かりた子に乳(ち)さがされてちぢむなり  かあさんじゃない。姉さんだよ。くすぐっ                      たあ。 乳の黒み夫に見せて旅立たせ      分かりましたか。了解。 いい縮み嫁の乳首がすいて見へ     大胆な嫁だ

  • 江戸を見れば 100   赤穂浪士討ち入り事件

     1702年元禄15年壬午(みずのえうま) 将軍 綱吉、時の権力者、老中上座の柳沢吉保。日本国の人心は乱れに乱れていた。  大坂の男伊達五人男処刑。旗本某偽印で町人から借金を斬罪。犬を殺した馬喰、切腹。勤務なしの京町奉行某を罷免、賭博犯を処罰、旗本3人斬首、18人を遠流。農民と商人38人を処罰。  そのような社会状況の中、12月15日の早暁4時ごろ、赤穂藩元家老大石良雄ら旧藩士47人は江戸本所松坂

  • 江戸を見れば 99  「遺恨、覚えたるか。」武士の面目

     1701年元禄14年辛巳(かのとみ) 柳沢吉保(よしやす)(保明)独り舞台の権力者となる。  綱吉は12月26日に柳沢保明の屋敷に出向き、松平の家号と綱吉の名の一字「吉」を与え、徳川家の一族に準ずると面令した。  保明の父安忠は将軍家光に数十年にわたり奉公し、保明(吉保)も20歳代から奉公し、儒学の弟子として人臣の模範として綱吉に奉公した。前例のない側用人から老中上座に異例の栄達をした。  今も

  • 江戸を見れば 98 将軍綱吉の「易経」講義終了

     1700年元禄13年庚辰(かのえたつ) 将軍綱吉が自ら講義した「易経」が11月21日をもって終了した。  1693年、元禄6年4月20日に開講して8年、240回の講座であった。  聴講者は門跡(もんぜき、宮門跡、摂家門跡、准門跡)三家、大名、旗本や僧侶、社人、山伏、保明ら側用人の家人などであった。  参 考 門跡=一門の法跡の意。祖師の法統を継承し、一門を統領する寺、また、その僧侶。皇  子・貴

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