• エッセイ きれぎれ草 10

    金というもの  金は現代、いつどんなときであっても数字である。そうして数字は魔術と非常に親近性が高いものである。それにしても、こんなに生臭い人間臭い数字はちょっと他には見当たらない。  また、金の魔術的な性格、例えば、1ドルが360円だったり、100円だったり、1億マルクだったりすることを思い合わせてみれば、その魔術的な性格と人間臭さを足して、何とも言いようがない、怪物じみているのにちょっとやそっ

  • エッセイ きれぎれ草 9

    ユング<イメージの心理学> ユングの自伝を読んでいると、ユングが人生を決定するような強烈なイメージに襲われるときは、それは、襲われるという言い方に相応しいものだが。 それを自分のうちに引き受けるのに逡巡する何日間やときには何週間かがあって、そのときには、ユングは鬱に近い状態に陥るのだが、そのイメージは自然にユングの心の中にやって来たというのではなくて、ユングがその重荷をはっきりと自分に引き受けると

  • エッセイ きれぎれ草 8

    歴史があるということは われわれがまさしく生きているという、そのことに他ならない。       〇 シルクロードからもたらされた夥しい異邦の文化を、無際限に取り込んで、消化してきた日本は、その地図上の形態からも人間の胃を思わせる。世界の胃。そのたくましい消化力は、いずれ、西洋文化やイスラム文化さえ自己のものとして、消化してしまうかもしれない。       〇 対立する原理の、鋭い交点に、常に立ち続

  • エッセイ きれぎれ草 7

     武は儒教の洗練を受けてその人格形成力を増したと言っていいが、武は侍という言葉が示す通り、君に仕えるのがその本分である。従って、その人格は表立って主張されることを嫌う。  君に仕えるという現実の仕事の意味合いに、儒教は強固な足場を提供したのだが、その中で、作り上げられた人格は少しも分かり易くはならなかった。却って、教養として複雑になったのだが、人格という単純簡明なものの深化がより深まったとも言える

  • エッセイ きれぎれ草 6

    美しく貴重な感情には、礼儀の衣が欠かせない。       〇 形式は、法則というよりも礼儀に近い。       〇 俳句の五七五形式、季語は礼儀そのものと言える。                〇 読書は、レコード針とレコード盤の関係に似ている。 早く読み過ぎても、遅く読み過ぎても何も分からない。       〇 自然は人間に放心を許したが、社会というものは人間を放心させまいとする。       

  • エッセイ きれぎれ草 5

       福井の方の年始行事に、弓打ち講というものがあるそうで、的に矢を放ち、その年の吉凶を占うものだそうだが、これは的に矢が当たらないときの方が、吉で、却って的に矢が当たってしまっては、凶事が起こるとされているそうである。  批評ということと、重ね合わせてかんがえてみるのだが、あまりにも的確で、息を飲むほど的をついている批評というものは、なにかしら不安で、すこし不気味な感じさえ与えるもので、的を外し

  • エッセイ きれぎれ草 3

    歎異抄 たましいの奥底に墨で大書されたような文言。 これはどんな人間のたましいにも応ずる。 善人だろうが悪人だろうが。 「たとへ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも」 「すかされ」という俗語が、肉体的に痛切と言っていいくらいの血の匂いがする。 なんという奥深さだろうか。 親鸞の手振りや口調まで伝わってくるようだ。 親鸞にはもう一つ美しい言葉がある。 「弥陀の本願はひとへに親鸞

  • エッセイ きれぎれ草 2

    自我形成 自我を形成するとは、周囲から自分が切り取られることである。自我は切り取られた傷口に沿って自分を形成していくものである 寒天からナイフで小さな立方体を切り取る。 要点は、その立方体の小片にではなく、切り取られたという、そのことにある。 そうして、再び周囲と新しい関係を築くこと。自我形成とは、その営々たる繰り返し作業に他ならない。      〇 虚子俳話録 「私は人には、鬼のようにも仏のよう

  • エッセイ きれぎれ草 1

    問題 世の中の問題というものは、それがそのまま解決されることは、稀な事態である。通常はそれを問題とする必要がもうなくなったから、自然とその問題が解消されるという形をとるものである。われわれが、日頃頭の中で思い煩っている問題にしても同じことが言える。 ○ 内村鑑三 明治期以来、もっとも霊性的な人間といっていいのではないか。彼の書いた文章には、直に聖霊の存在を感じさせるものがある。 ○ ニーチェ 神は